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武士道 一名「秘密袋」   (扶桑堂書店刊より)(転載禁止)

ボアゴベイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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 武士道上編 一名「秘密袋」          涙香小史 訳

               第二十一回

 ああ、縄村中尉は少女弥生を敵軍に放ち帰す事が出来ない為自ら敵軍に行き約束通り射殺されようとして今や牢から抜け出そうとす。今の世にこれ程まで武士の道を守り、これ程まで一言を重んじる健気な人が中尉の外に誰が居るだろう。それにしても中尉とは敵の仲ではあるがこの様に因縁が絡まっている少女弥生はどの様にしているのだろう。

 弥生の入れられたのも、中尉の入れられたのと同じ此のベントの獄で、其の部屋は中尉の部屋の真下に在る。中尉は従者鉄助に傅(かしず)かれて牢外の事をまで聞く方法があるので、或いは弥生の部屋を知る事も出来るが、弥生は我が部屋の壁の一重隔てては、外に何が在るのかを知らない。唯其の身が市長から入牢を命ぜられた時、其の身より先に中尉が引き立てられたのを見たので、同じ牢に同じ囚われる身である事だけは知った筈だが、全く中尉の事は思いもしない。

 今も猶此の牢に在るのか将(はた)又他へ移されたのか、若し此の牢に在るとすれば何の部屋だろうなど、これ等の事は少しも弥生の心には浮かばない。唯気に掛かるのは勤王軍の運命と小桜露人(つゆんど)の身の上である。過ぎた朝其の身が先鋒として案内した海岸の攻撃は全く失敗に終わり、四門の砲撃も打ち退けられたと聞いたので、此の朝を最後の目的とした勤王軍はきっと再挙の力無いまでに敗北し、重(おも)なる将士は討ち死にし、残る人々も散々と為ったに違いない。

 副将軍小桜露人と言えども我が身を崖の上まで追って来て敵丸に当たり、血に塗れて倒れたのを従者黒兵衛が抱き上げて崖の方へ馳せ去ったのだけは親しく見たが、豊(よ)も無事に今迄生きながらえている事は無いだろう。黒兵衛がいかに勇気あり、力があっても多分は崖を下まで降りる事が出来ずに海面から射出す敵の丸に打たれたに違いない。

 小桜露人の外に、此の世に頼りとする人一人も無い我が身が、此の上生き延びて何になる。露人と共に戦場に死に去るのは残念だが、切(せめ)ては此の上の恥辱を受けない間に此の牢の中で死なせて下さいと、神に向って唯祈るだけなのは、憐れむべき限りと言える。

 かくて二日目の昼に至り、食事を送り来たりし獄丁は先に弥生が捕らわれた時、彼の狸田軍曹と共に弥生を射殺そうとした一人で、確かに其の顔に見覚えあるので、彼の時此の者等に射殺されたならばこの様な浮き目も無かったろうになどと思う折しも、不思議や、此の者、弥生の傍近く寄り、

 「お律婆が貴女を助けると言って力を尽して居ますから気を落としては了(いけ)ませんよ。」
と細語(ささや)き、弥生が驚いて其の仔細を問返えそうとする間に、早や戸の外に出て去ってしまった。後にてつらつら思って見ると、成る程お律ならば我が身を助けようとするかも知れない。しかしながら共和軍の一人であるこの様な輩に其の秘密を知らせる筈は無い。

 或いは此の者何か心に企計(たくら)む事があって、わが身を欺こうとして居るのだろうか。そうだ全くの偽りに違いないと一旦は思い定めたが、又考へ直せば此の共和軍の一卒であるとは言へ此の室に出入りする獄丁である、お律が若し我が身を救おうとするなら、此の者に頼る外は無い。究極的には賄賂などを以って如何様にも翻らせる事が出来る小人なので、お律或いは賄賂で此の者を手に入れたのだろうか。

 何れにしても夕飯の時に又来る事必定なので、其の時に詳しく問試みようと決心し、心に日の暮れるのを待っていると、例(いつ)もの夕飯よりは凡そ一時間も遅れて、全く暗くなった頃、彼は提灯を携(さ)げて入って来た。先ず食べ物をテーブルの上に置いて手早く己の外套を脱ぐので、弥生は怪しくも有り、気味も悪く、思はず部屋の隅に退くと、外套を脱ぎ終わり、己の胴から腰に至るまで長い縄をグルグルと巻き付けていて、手つから其の縄を解き、床の上に手繰り重ね、次に一通の手紙を出して食物を盛ってある皿の下に敷き、一丁の蝋燭と燐寸を残し、

 「後で此の蝋燭を灯し此の手紙をお読みなさい。是は貴女を救う人から寄越したのです。」
と云い、又も弥生が問い返す暇も無い中に立去った。
 弥生は益々怪しく思ったが、手紙まで持って来るからはお律が此の者を手に入れたのに相違無いと思い、ややあって蝋燭を灯し、其の手紙を披(ひらい)て読むと、其の文には、

 「此の手紙を持って行く獄丁は御身を捕らえた一人なれど、今は私の手の者なのでお疑い為さるに及ばない。此の者がお渡し申す麻縄をば窓から下の海岸に垂れ、それを伝って海岸まで御下り為さるべく候、下には私がお待ち受け申し居り候。縄は充分丈夫なので切れる恐れが無い事は一目ご覧成さればお分かりでしょう。窓から海岸までは容易ならない距離ですが、目を閉じて一生懸命に下れば心配に及びばません。勤王軍は運拙くして敗北し、四方へ逃げ散りましたが、其の重なる人々は明朝までアプランチ地方に潜んで居る筈なので、御身が海岸へ下り次第、直ちに御身を無事に同所まで送って行く仕度が調って居ります。海岸は干潮の刻限でなくては通る事が出来ません。今夜十時半頃が最も干潮ですので、十時には私海岸へ出迎へて居ります。十時の鐘を合図に窓を出れば宜しいと思います。御身の育ての親、お律より。」
と有り。

 お律の手蹟は今迄見た事は無いけれど、何から何まで行き届いた文言でその仕業に違いないと察せられる。一老婆の企計(たくらみす)としては余り大胆にも過ぎるが、恐れを知らない気性なのでこの様な決心を起こしたものだろう。事に由っては小桜露人がまだ存(ながら)えて居て、お律にこの様な智恵を貸したのかも知れない。死ぬ時は共に死のう。身の難儀は如何なる事が有っても互いに助け合おうとは露人と此の身とが日頃から固く誓っていた約束なので、彼命さへ存して有れば、如何なる困難を冒してもこの様に我が身の救い出しを企むのだろうと、今迄絶望していた心中に一種の嬉しささへ湧き出て来た。



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