busidou31
武士道 一名「秘密袋」 (扶桑堂書店刊より)(転載禁止)
ボアゴベイ作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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武士道上編 一名「秘密袋」 涙香小史 訳
第三十一回
「後を頼む。」
と云い捨てて中尉が戸外(おもて)に飛び出すと、浦岸老人は今更の様に狼狽(うろた)えて、転がり出で、
「アア、此の少女が弥生様とは知らなかった。弥生様ならば言わなければ成らない事が有ります。いま少しお待ち下さい。」
と叫ぶのは深い仔細のある事に違いない。
中尉は馬に飛び乗りながら、
「待って居られる時では無い。」
と叱り付ける様に言えば、老人は殆ど狂乱の有様で、
「では弥生様、お一人だけお残り下さい。話すだけの事を話せば、命に替へても私が守護します。守護して勤王軍へ送り届けます。」
と言う。しかしながら素(もと)より弥生一人を残して置かれるような場合ではないので、中尉は老人が取り縋(すが)らない間に弥生を鞍の上へ引き上げ、
「イヤ、老人、軍(いくさ)が済めば屹度(きっと)此の家(ここ)へ尋ねて来る。」
と言い放ち、馬に一鞭当てると共に早や闇の中に隠れてしまった。
老人は暫(しば)し其の後を見送ったが、更に追っ手の来る方に向い、悔しそうに拳(こぶし)を振り、
「エエ、悔しい、汝等が追い掛けてさへ来なければ、弥生様に大事な事を言う暇の有ったものを。エエ、多年心に掛け、ヤッと廻り逢えば此の通りだ。俺も追々取る年と云い、何時死ぬ事かも知れない。無事に再び廻り逢ふ事が出来れば好いが、若し出来なければ弥生様を、どの様な不幸に沈ませるかも知れないワイ。」
と涙声を立てて叫んだが、その中に早や、追っ手は益々近づいて来た。
馬の足音と犬の声、小山の麓に聞こえるのを、
「エ、エ、弥生様等は二匹の馬に四人乗っていらっしゃる。幾等逃げても追手の馬に追い付かれるのは確実だ。生憎に鼻の利くラペが案内しているからは騙(だま)すにも騙されず。何とか工夫しなければ助からないぞ。」
と言って一人身を悶えて居たが、漸(ようや)く思案が浮かんだのか、慌てて家の内に入り、肉脂の壷に手を浸すと、この様な所へ身丈4尺(1.2m)にも余る彼の大犬ラペは一声高く吼えて戸口に来たので、老人は、
「オオ感心な犬だ。又道に迷った人足でも尋ねに行くのか。」
と云いながら、肉脂に濡れた手を舐めさせ、猶其の鼻の中に肉脂を充分擦り入れて、
「フム、斯(こ)うしてさえ置けば、当分此の犬の鼻は馬鹿に成るワ。」
と言うと、此の時追手の一群は早や此の家の戸口に立った。
追手の長は彼の悪人腕八で、是に従うのはラペの持ち主を初め、市長の部下幾名である。腕八は老人に向い、
「ラペが此の家に飛び込んだからは落人が此の家で休んだに違い無い。老人、落人は如何したか。」
老人は驚かず、
「如何したかといって、狭い此の小屋に落人などが潜んで居る筈も無いだろう。疑わしければ、家捜しでもするが好い。」
腕「ナニ、潜んで居るとは言は無い。此の家から何方(どっち)へ立った。」
老人は少しでも此の追手を手間取らせ、弥生等を落ち延ばそうと思うので、
「爾(そ)うさ、昨日から勤王軍の落人が引きも切らず茲(ここ)を通るが、右へ行くもあり、左に行くも有り、唯落人とだけでは分からないが。」
腕「ナニ、縄村砲兵中尉と弥生と言う女の一行だ。何でもおいらが山の下に降りた時、此の辺で馬の足音が聞こえたようだ。」
老「アレなら山手の道へ行った。論より証拠にはラペの頭がソレ、山の方へ向いているではないか。」
と言って肉脂の効でラペを山手に差し向けて指を指すと、ラペは早や鼻の力を失い、山手を指して一散に走り出した。
腕八は少しも疑はず、
「山手とは夜道に聊(いささ)か困難だが、併し逃げる奴も困難だから結局好いかも知れない。」
と云い、従う者を指図しながら、山手を指して馳せ去った。老人は暫(しば)し見送ってホッと安心の息を吐き、
「海岸へ出たものを山の手へ追い行くのだから、行けば行くだけますます遠く離れるワ。」
と独語した。
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