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武士道 一名「秘密袋」 (扶桑堂書店刊より)(転載禁止)
ボアゴベイ作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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武士道上編 一名「秘密袋」 涙香小史 訳
第三十四回
弥生の馬が馳せ去ったので、中尉、鉄助などは言うに及ばず、勤王軍の士官二名も非常に驚き、其の儘(まま)馬を並べて追い掛けたが、先は耳を打たれた恐怖心で死に物狂いに馳せる者なので、此方(こちら)の四人は到底追い付くことは出来ない。早や幾町(数百m)か隔たってしまった。しかしながら折角茲(ここ)まで救って来た弥生を又も共和軍に落ち入らせるのは此の上無く残念な事なので、四人は息をも継がず馳せて追ったが、弥生の馬は早やくも小山の下に横たはっている小河を一足に飛び越えて敵の陣している林の陰へ一直線に走り入ってしまった。
弥生が再び共和軍に捕らわれた事は最早疑う迄も無い。隊長レシエーは
「エエ、単騎でも構はない。敵の中へ飛び入って弥生を救い出して来ようか。」
士官ヂレイは、
「単騎で敵の陣中に行けば弥生と同じく捕虜となる迄の事。」
「でも余り馬鹿馬鹿しい。戦争の結果で弥生を生け捕られるのは仕方が無いが、戦いもせずに馬が狂って敵軍へ入り、それで生け捕られるなどは、戦の法に無い事だ。悔しさに堪くて仕方が無い。」
縄村中尉は之を慰め様とする様に、
「イヤ、私があの軍に帰りますから、若し弥生女がまだ殺されずに居れば、必ず此方へ送り還えして上げますよ。では約束通り之でお分かれに致しましょう。」
と云い、早や分かれ去ろうとする様子なので、レシエーは遽(いそが)しく其の前に立ち塞(ふさ)がり、
「之は可笑しい、弥生が再び貴方の軍へ捕らわれたのに、貴方はもう自分の義務が済んだと云い、自分の軍へ帰る積りですか。」
縄「無論、です。弥生女が再び私の軍へ落ち入ったのは決して私の落ち度では有りません。私は既に貴方がたお二人へ引き渡したのです。」
レ「理屈はどうであれ、茲(ここ)で貴方を放つことは出来ません。弥生が再び貴方の軍へ捕らわれたからは私の方でも再び貴方を捕らえます。其の上で又も貴方を弥生と交換の為共和軍へ派遣するや否やは更に将官の会議を以って大将軍の指図を経なければ成りません。イヤ何、今夜の中に此の事を私が将官の会議へ持ち出します。会議に於いて弥生がまだ生きている者と認めれば、貴方を生かして置くかも知れませんが。爾(さ)もなくばーー・」
縄「私を殺すと云うのですね。」
「まあその様な事はいずれにしても貴方の運命は今夜の将官会議で定まるのです。」
士官ヂレーも口を添え、
「貴方の今までの振る舞いは実に軍人の亀鑑ですが、茲(ここ)で若し貴方が未練らしい言葉を吐き、再び捕虜と為るのを拒むなどの事が有っては今までの名誉に泥を塗るようなものです。自分と交換の約束のある勤王軍の捕虜は勤王軍へ帰らないのに、貴方が共和軍へ帰ろうとは余りに得勝手な言い分です。」
縄村中尉は暫(しば)し黙して考えた末、敢へて名誉を得る為では有りませんが、成るほど弥生女と私との交換は未だ実行せられたものとは言はれません。茲(ここ)は共和軍の眼前ですので、貴方がたを振り放して自分の軍へ帰えるのは別に難しくも有りませんが、捕虜のままで貴方の軍へ帰りましょう。どうも弥生女を紛失したからには致し方が有りません。」
と言う。
しからばと言って中尉と鉄助とを中に挟み、レシエー、ヂレーの両士官で之を護送する様に両端に立ち、静かに茲(ここ)を引き上げようとすると、此の時敵の郡中では無事に弥生を捕らえることが出来た喜びと見え、口々に歓喜する声が聞こえ、続いては林の此方へ青い制服を着けたる一隊の共和軍兵が現れ出で、此方の四人を目掛け、射撃を始めたが、踏み止まって争うべき場合では無いので四人は馬を急がせて、勤王軍の陣へ逃げる様に引き上げた。
中尉と弥生は到底無事には交換される事が出来ない運命のようだ。
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