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武士道 一名「秘密袋」   (扶桑堂書店刊より)(転載禁止)

ボアゴベイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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  武士道上編 一名「秘密袋」           涙香小史 訳

               第三十六回

 黒兵衛を、
 「爺や」
と呼び、
 「腹が空いた。」
と言うこの少女、そもそも何者だろう。泰山前に崩れるのも驚かない黒兵衛ではあるが、之には腸を千切られる想いがすると見え、困った様に四辺(あたり)を見回し、空しく両の手を握るのは、手近に食物を得る道は無いかと探し求める心に違いない。打ち続く敗軍に将官すらも食うや食わずで身を労している際なので、見回わしても食物が有る筈は無く、
 「エエ、仕様が無いなア。」
と独り言して更に両手を双方の衣嚢(かくし)に入れ、その底を撫(な)で浚(さら)えて握って見て、握り拳を開いて検(あらた)め見ながら、
 「先ほど迄、嬢様に上げようと、パン一切れ取って置いたが、此の前の坂を越す時、砲車が余り重くなったから、ツイ自分で食ってしまった。今は屑さへも残って居無い。手に掛かるのはコレ埃(ごみ)ばかりだ。エエ」
と力を籠めて手の埃を叩き付ける如く地に擲(なげう)ち、

 「嬢様、彼所(あそこ)の小川へ行き、水でも飲んで今少し辛抱なさい。向こうのポントルソンと言う町を攻め落とせば甘い物が沢山有ります。」
と無作法に賺(すか)し宥(なだ)める心の中には如何ほどか苦しいことだろう。それに付けても思い遣られるのは此の軍の有様である。敵の町を攻め落とさなければ一食をも得る事が出来ないとは、実に死に物狂いの境涯にして、其の人数の割合より強悍なのも一つは之が為に違いない。

 縄村中尉は敵ながらも此の有様に憐れを催し、従者鉄助を顧みると、彼も同じ思いなので、其の意を察し、携える兵糧袋からビスケット三個を取り出だして黒兵衛に与えると、黒兵衛は思はず、
 「有難い、」
との一語を発し、其の二個を嬢に与え、
 「サア」、嬢様、一個を今食べて、一個は後まで取って置きなさい。」
と云い、残る最後の一個は自ら持って、中尉に向い、

 「平生なら貴様達にこの様な恵みを受けるのじゃないけれど、空腹だから仕方が無い。受け納めて此の一個は俺が食ってやる。」
と云い、苦笑いして口に入れたり。中尉は此の少女は何者だろうと怪しみ、又事の序(ついで)に彼の弥生と小桜露人との間、或いは許婚ではないかと聞き糺(ただ)そうと、我にも無く異様な疑いを起し、わざと笑って、
 「アハハハハ、勤王軍の奴等には呆れて仕舞ふ。軍の中にまでそれぞれ自分の妾を引き連れるとは。」
と云うと、黒兵衛は聞き咎めて、

 「何だ妾、妾とは何の事だ。」
 縄「とぼけるな、貴様の妾だろう、其の少女は。」
 黒兵衛は目を剝(む)いて、
 「自分の腐った心を以って他人の事を推量するな。此の嬢様はな、先に戦死した梅田子爵の一人娘で、子爵の戦死後、誰も育てる人が無いから、俺が此の通り保護して居るのだ。子爵が死に際に俺に向ひ、此の娘を自分の子と思い育てて呉れと遺言せられた。俺は此の嬢様の父も同様だ。」

 縄「成るほど、貴様の年では父と言う狂言も勤まるが、まさかに小桜露人は弥生の父などと誤魔化しは利(き)かないだろう。二十四、五の紳士に十八、九の娘と言っては世間の人が真(ま)に受けない。」
 黒兵衛は悔しさに我慢できない声で、
 「貴様は実に無礼な奴だ。俺の主人をまで侮辱するのか。今若し貴様に食い物を貰って居なければ、、二言と言はせず切り殺して仕舞うけれど、」
と言って腰の帯剣に手を掛け、砕けるばかりに其の柄を握った。

 この様な折しも、先のレシエー隊長、馬を走らせて此処に来た。
 「黒兵衛、サア、砲撃だ。陣地へ出ろ。」
と促して去ると、黒兵衛は梅田嬢を抱いて砲車に乗せ、
 「サア、愈々(いよいよ)戦いとなれば、二十分の中にポントルソンを攻め落とし、此の付近の敵を払ってドール地方を指して進むから、再び此の土地には帰って来ない。貴様達も後学の為、陣地に来て勤王軍の戦い振りを拝見せよ。」
と云い、早や四、五の部下と共に砲車を押して進むので、中尉も鉄助も馬に乗り、其の後に従って行くと、丘の高き所を越え、其の中ほどにある格好の地を選んで砲を置くと、早や丘の下には此方の歩兵、幾隊の列を為し、前面のポントルソンに陣する共和軍と相対して射撃の火花を散らしつつ有った。

 中尉は無言で両軍を見比べて、鍬(くわ)の外手にした事の無い農夫等から成れる此方(こちら)の兵が射撃に巧みなのには驚く程だ。正式の訓練を経た共和軍は之に引き替へ拙劣な事は殆(ほとん)ど言うを待たず、空を狙って射っているのではないかと疑はれる程だ。中尉は切歯して、
 「味方ながらも愛想が尽きる。あのような奴が先発隊とは実に共和軍の面汚しだ。クレパー将軍に知らせて遣りたい。」

 黒兵衛は其の中に梅田嬢を木蔭に卸(おろ)し、砲門を開き、
 「フム、貴様が自分で指揮しても、俺の軍ほど旨くは戦う事は出来ない。」
 縄「ナニ、その中に俺の手際を見せて遣る時が来るワ。」
 黒「射殺されることを忘れて何を言ふか。」

 罵(ののし)りながら砲撃を始めると、その巧みなことは歩兵の射撃にも優るほどなので、中尉は只管(ひたすら)に感心し、この様子では共和軍は到底この所を支える事は出来ない。勤王軍にドール地方まで進まれるに違いないと、断念して眺めて居ると、果せるかな凡そ四十分ほどの戦いで、共和軍は総崩れと為り、ポントルソンの町を捨てて逃げ、更にレシエーの率いる騎兵に追撃されて散々となったので、勤王軍は夜の七時頃全くポントルソンを占領し、直ちに市長の邸を本営とし、ここに将官の会議を開くことと為った。

 縄村中尉を殺すべきか、将(はた)また当分活(い)かして置くべきか、是も会議の問題なので、黒兵衛自ら中尉を連れ審問の場所に引き出したが、愈々(いよいよ)其の所に入るに臨み、黒兵衛は中尉に向い、
 「愈々貴様が殺されるとなれば、約束通り俺が射て遣る。」
と告げた。
 中尉の運命如何に決せられようとするか。



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