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武士道 一名「秘密袋」   (扶桑堂書店刊より)(転載禁止)

ボアゴベイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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  武士道上編 一名「秘密袋」                   涙香小史 訳

               第四十回

 小桜露人(つゆんど)はまだ多少の言い度(た)い所はあるが、大将軍の呼び立てに時間も取れず直ちに縄村中尉を従え、将官会議の席に入ると、大将軍は縄村中尉の言う所を聞き終わり、武人として其の振舞の天晴れな事を称賛したが、兎も角弥生が既に又敵軍に落ちたからは、許し返す事は出来無いと言う。

 二、三の将校其の後に続き、最早敵軍が容赦なく弥生を殺す事は確実なので、此方(こちら)に於いても無益な期待はせず、直ちに中尉を射殺すべきだと云い、更に今は味方も減じ、何に就(つ)けても人手が不足している際なので、捕虜を生かして置いて余計な手数を費やすべきではない。捕虜に与える一食と言えども之を部下の兵を養うのに用いて士気を振るはせる事こそ今日の急務であると言って、殆ど其の議に決しようとすると、席末の黒兵衛は昼間から中尉を預かり、互いに罵(ののし)り合ったとは云え、深く中尉の剛毅な気質に感じ、宛(あたか)も意気相許したる親友の様な気がするので、議がこの様に決まりそうになるのを見て、残念で仕方が無い。

 だからと言って、身は小桜露人の従者から身を起こした者なので、今は仮令にも砲兵士官の格になっているとは言えども、露人を差し置いて嘴を容(い)れる事は出来ない。胸を衝いて出ようとする異存を食い止めようとする様に固く歯をを噛みしめ、口を結び控えていたが、其の前額(ひたい)には点々汗の玉が浮んで来た。果は堪える事が出来ず、露人の背を突くと、今迄一語をも発しなかった露人は非常に静かに一同に向かい、

 「弥生の生死が未だ分かりません。若し明日にも敵軍から此の中尉と弥生とを交換したいと言って来たならば何とします。其の時此方より中尉を出さなければ、其の時こそ敵軍が弥生を殺す事は確実なので、兎に角、弥生の生死が確かに分かるまで中尉を生かして置かなければ成りません。之を殺すのは味方の一人弥生を殺すのも同じ事。既に我が軍に人手が少ないと言うならば、猶更弥生を生かす様に計らねば成らないのではないでしょうか。兵糧についても既にこの様にポントビルソンを乗っ取ったからは、一人や二人の捕虜の為に急に欠乏するほどでは有りません。」
と言うと、黒兵衛は喜んで、

 「ハイ、兵糧は構いません。既に私は此の者が持参の兵糧を先刻分けて貰い、梅田嬢にも与へ、自分も食ったほどですから、此の後は私の兵糧を分けて遣ります。」
と言う。異様な弁護に一同は四角なる顔に時ならぬ笑みを浮かべたが、大将軍は間も無く、

 「イヤ、小桜君の言う通りです。弥生女の生死が確かに分かるまでは、中尉を生かして置かなければ成りません。」
と最後の一言を発したので、是で中尉の命は又も取り留められる事に決した。是から将官会議は又他の問題に移る。其の中尉は黒兵衛に預けらる事と為り、退席を命ぜられたので、露人も負傷者の事なので席に堪えられず其のまま中尉及び黒兵衛と共に退くと、中尉は深く露人の弁護の恩を感じた様子で、

 「イヤ、私の命は二度までも貴方に取り留められました。他日場合を得たら、如何にかしてこの恩に酬いたいと思います。」
 こう言って黒兵衛に連れ去られた。
 此の翌日ポントルソンから更に軍を予定の通りドール村に移したが、茲(ここ)で又一日を費やし、残っている兵を纏(まと)めると、かって最も勢ひの盛んだった頃は五千人を越えていた兵、今は一千人にも満たない。

 事を起こしてから六ヶ月の間に転戦又転戦し、既に四千人を失ってこの極に達したるかと思うと勤王軍の運命も是までにして心細いことは限り無かったので、一同口にこそ出さなかったが、この地を以って討ち死にの地と決心し、地の利に拠って必死の守りを固めていると、追い追いに偵察者の注進で、敵である共和軍が遠く幾重にもこの地を囲みつつある事が分かったので、空しく敵の手配りの行き届くまで待つべきでは無い。

 此方(こちら)から戦を開き、策を考え出して、悩ます事が出来るだけ敵を悩まそうと、二日目の夕刻は敵の備えの薄い所ばかり目掛けて攻め始め、小桜露人も彼のレシエー隊長と共に一方に向かおうと用意をしていると、此の時偵察の一卒、敵の落人であると言って独りの若者を捕らえて来たので、露人自ら直ちに之を尋問すると、この若者は敵が本営を置いているアントレンという町の馬車屋にして市長から義勇兵に編入せられ、輜重(しちょう)の馬車の御者と為り、今日一人の捕虜の少女と小僧を載せ、この先の林の陰にある陣地に来たところ、戦争が始まった様子なので、恐ろしさに耐えられず、隙を見て逃げ去ったところをこの様に此方(こちら)の兵に捕らえられたものだと云う。

 さては其の捕虜の少女こそ弥生に相違無いと思われるので、更に詳しく聞くと、今しがた、猛犬を連れた男が来て、少女に何事をか談じ、一同夢中の有様だったので、其の間に脱出したとのことだ。縄村中尉も茲(ここ)に居合わせ、其の猛犬はラペという犬で、男は必ず腕八に違いない。その様な悪人に若し少女弥生が捕らえられては、必ずグランビル市へ連れ帰られ、更に当時諸方の謀反人などを惨殺しつつ有る南都の死刑場に送られるに違いないと言うので、小桜は打ち驚き、レシエーと共に部下の兵を引き連れ狂気の如くになって進んだが、これこそ前々回に記した様に弥生と露人とが僅かの所で行き違った次第である。

 この様にして若者が教える所に到着したが輜重車(しちょうしゃ)は既に見えない。更に逃げる敵を追い、幾町(数百m)か進んだが唯敵兵を殺しただけで、遂に輜重車を見つける事は出来なかった。露人は絶望の余り若者を叱ろうとすると、彼は又も逃げ去ったと見え、早や其の姿は見え無い。露人は仕方なく茲(ここ)を引き上げたが、之を手初めとして戦争は八方に始まり、夜に徹して砲声は絶えず、更に引き続いて翌日の日の暮れに至るまで勤王軍は益々寄せ来る無数の敵を引き受けて強頑に抵抗したが、少数を以って多数と戦う事なので、一方に勝てば一方に破れ、レシエー初め多くの士官が戦死して、昨日千人に近かった兵、今は四百人に足りない。

 今二十分と経(た)たない内に敵の総兵圧し入って此方を皆殺しにすることは疑いも無いところまで至ったので、露人は今こそ真の最後と思い、本営としている寺院の中に走り入って、縄村中尉に向い、
 「愈々貴方を放ち帰す時が来ました。最早放ち返さなくても貴方の味方が茲(ここ)を乗っ取るので貴方は味方に救われます。こう言う中にも共和軍の弾に当たるかも知れまんので、サア無事な中にお帰りなさい。」
と言って中尉を放ち、

 更に又、
 「私が唯一つの願ひは戦争の済んだ後で如何(どう)か弥生をお尋ね下さい。弥生は貴方の言った通り、必ず腕八とやらに捕らえられ、南都の刑場に送られたで有りましょうから、若し救う事が出来なければ、せめては其の死期を見届け死骸を葬ってでもお遣り下さい。之は」
と言って今迄持って居た彼の秘密袋を取り出だし、

 「弥生の外に開き見る権利の無い品物ですので、如何(どう)か本人へお渡し下さい。若し当人が死んだ後なら封のまま焼き捨てて下さる様に願います。」
と言葉忙しく頼み込むと、中尉は深く露人の境涯の憐れむべきを察し、一語の否やをも言わず、

 「心得ました。到底弥生嬢を救う事は出来無いでしょうが、出来るだけは尽くします。愈々救う事が出来ない時は、お言葉通りに致しますから。」
と云い、之を最後の挨拶として露人に分かれ、寺院の裏門から走り出ると、早や共和軍の放った火の手、町の四方に起こり、炎は天を焦がすばかりの有様に道を照らし、算を乱して倒れている死骸の影が鮮やかだった。



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