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武士道 一名「秘密袋」   (扶桑堂書店刊より)(転載禁止)

ボアゴベイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.2.7

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  武士道後編 一名「秘密袋」                      涙香小史 訳

               第五十二回

 腕八の靴音に夢を破られ、がばっと立ち上がった小桜露人は腕八の顔を眺めもせず、非常に確かな音調で、
 「サア行きましょう。」
と言った。腕八は却(かえ)って呆気に取られた様に、
 「エ、行くとは何処へです。」
 露「刑場へ」
 アア是又弥生と同じく唯死刑をばかり待っていたと見える。
 腕「イヤ必ず刑場へは引き出されますが、未だ其の時では有りません。」

 露人は口の中で、
 「何時まで生きて苦しまなければ成ら無い事か。」
と嘆息した。
 腕「イヤ、何も苦しむ事では無く、最も喜ぶべき場合です。貴方は弥生嬢と云う勤王軍の女を知って居ましょう。」
 露人は更に理解が出来ない様子で、
 「何故。その様な事をお問いなさる。」
 腕「イヤ、貴方が死刑と極まった身でも、これから二十分間ばかり、誰も見ていない所で弥生嬢に逢わせて上げればきっと満足だろうと思いますからサ。」

 露人は真実弥生に逢う事が出来るとは思わず、
 「エ、弥生嬢、其れは既にこの世を去った勤王軍の女丈夫の名前ですが。」
 腕「イヤ其の女丈夫が未だ活(い)きて居るのです。」
 露「エ、何と」
 腕「活きて貴方と同じく此の獄に繋(つな)がれ、死刑には成る筈ですが、未だ其の順番が来ない為、待っているのです。」

 あまりの事に、真に弥生が此の世に活きて居る事が有り得るかどうかを篤(とく)と考えて見る為、自分の思考を集中しようとする様に、暫し眼を閉じたが、非常に静かに、
 「フム、弥生が、未だ活きて此の牢に居るとは。万に一つも死なずに居る筈は無いとは思ったけれど、何処で死んだと言う確実な話は聞いて居なかった。爾(そ)うすると未だーーー」
と考えながら独語しているので、

 腕「イヤ、爾(そ)う緩々(ゆるゆる)と考えてなど居られる場合では無いのです。考えるより逢って話をした方が早分かりです。」
逢いさえすれば死んだの死なないのと言う疑いは直ぐに解けます。」
 露「エ、私が弥生に逢ふ事が出来ると云うのですか。」
 腕「爾(そ)うです。論より証拠、サア私に随(つい)てお出でなさい。連れて行って逢わせて上げます。」
と殆ど手を取らないばかりにして迫り立つのに、露人は猶(なお)も疑わしそうに考えるばかり。腕八も忽(たちま)ち理解し、

 「アア、分かった、貴方は私がこの様な事を言い、貴方を騙(だま)し、茲(ここ)から連れ出して何か酷(ひど)い目に合わせる計略だとこの様に疑うのですか。」
 露「ハイ、暴虐な政府から嬲(なぶ)り殺しにされるとまで憎まれた私が、少しの間でも優遇される筈は無いのです。死刑の場所へならば何時でも進んで出ますが、その外は此の室(へや)が私の居るべき所です。」

 意外な返事に腕八は、何と言って此の人の疑いを解いたら好いだろうと暫(しば)し好い思案も浮んで来なかった。ややあって、
 「貴方は死刑と極まった身ですが、たとえ私に騙(だま)されて連れ出された所が、ハイ、幾等間違っても命を失うことから上の事は有りません。騙されて命を失えば、其れで嬲り殺しの死刑を免れるから、別に損とは成らないでしょう。騙される積りで私に附いて来れば好いでしょう。死を決した身が何も恐れる事は無い筈です。」

 露人は非常に此の言葉を賤(いや)しむ様子で、
 「ナニ、恐れる。ハハハ、勤王軍の武士は恐れると云う事を知りません。唯死に際に到るまで未練の心が有る者は、自分から其の未練心に欺(あざむ)かれ、為すべきでは無い事を為して、死に際の名を汚すに至ります。ハイ、私は騙されたり、殺されたり、その様な事は恐れません。唯武士の名を重んずるのです。私を此の牢から引き出したければ、刑場へ送ると云ふ正式の手続きを経てお出でなさい。」

 言えば言うほど決心が堅くなるばかりなので腕八は殆ど持て余し、貴族とはこうまで心の違う者かと驚いたが、一旦企(たくら)んだ事は中々思い止まらない男なので、少しの間に小桜を動かす事が出来そうな工夫を案じ、
 「正式の手続きと言っても此の通り夜中に忍んで来るからは、どうせ役人に悟られてはなら無い法を犯しているのです。何故私が貴方の為に法を犯すのでしょう。牢の外に、法を犯してまで味方を助けたいと云う者が有ればこそです。」
と暗に露人の同志者より頼まれたかの様に仄(ほの)めかすと、露人は初めて心を動かし、

 「では世間に未だ私の為に思って呉れる人が。」
 腕「ハイ、有ると見えます。勤王軍の勇士で捕縛を逃れて居る者も無いでも有りませんから。」
 露「では貴方に頼んだのはどの様な容貌の人ですか。」
 腕「ハイ、百姓の風をして毎日此の町へ入り込んで来るのです。肩幅の広くて色の黒い、爾(そ)うして腕力は底の知れ無いーーー。」
と云い掛けると、露人は全く悟り、
 「では黒ーーー、」

 腕「イヤ名前は云わなくても、貴方に納得が行けば其れで沢山です。その様な訳ですから、他の役人の眠って居る間に貴方を牢の中で、二十分間ほど弥生嬢に逢わせて遣(や)ろうと云うのも怪しむには足りません。」
 この様に説き明かされ、真実疑いの心晴れては、弥生に逢いたいとの一念が潮の様に湧いて来て、

 「アア有り難い、本当に弥生に逢う事が出来ますか。サア、連れて行って頂きましょう。サア早く。」
と、恋しさに何も彼も打ち忘れ、今迄の非常に厳重だった事とは打って変り、殆ど愚に還(かへ)った有様である。



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