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武士道 一名「秘密袋」   (扶桑堂書店刊より)(転載禁止)

ボアゴベイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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 武士道後編 一名「秘密袋」              涙香小史 訳

               第七十一回

 小桜露人が今救われる間際と為り、自ら黒兵衛の肩を離れて水底に溺れ入ったのは傷ましい限りではあるが、男たる者の振る舞いとしては又止むを得ない所と言うべきだろう。彼縄村中尉に救われて、この世に生き存(ながら)えて居ても何の楽しみが有るだろう。唯後々まで弥生と中尉との間を妨げ、弥生を非常に辛い境涯に沈ませる本となるばかりである。

 而(しか)も自分としても、叶わ無い恋の苦しみに身を攻められ、楽しい月日の有る筈は無い。命一つが他人には邪魔となり自分には重荷と為る。この様な境涯におめおめとして存(ながら)える事は小桜露人の断じて為し得無い所である。彼は自分の身が既に死に遅れたとは云え、今死すればまだ死なないよりは優っている。

 今死んで弥生を其の思う人の妻にならせれば、我が身と弥生との間は恩に始まり恩に終る者と成り、其の恨みに終ら無い丈が、せめてもの死に甲斐と成る。彼は斯(こ)う思うが為、苦しい息の下から中尉に向かい、弥生の心を察して妻とする事を頼んだものだ。頼む心の術無(せつな)さは察せらるれが、此の一語で男たる努めは終った。弥生が中尉を愛している事も分かり、又後々弥生が中尉に我が愛を知らせ無いなどと云う悲しい決心を破ることにもなった。

 中尉は此の語を如何に聞き如何に感じたかは、聊(いささ)か顔色の変る様な様子は見えたけれど、今はこの様な事を考え味わうべき時では無い。中尉よりも黒兵衛は猶更(なおさら)驚き、
 「アア残念な事をした。茲まで来て露人様を死なせたのか、併し此の儘死なさせはしない。俺は幸い身軽となり疲れも殆ど忘れたから、最(も)う一度露人様を助けて見る。中尉は右の岸に漕ぎ付け俺の便りを待って呉れ。」
と云い、此の一語を残して直ちに暗い水底に潜(もぐ)って行った。

 是と云い、彼と云い、傷心の事のばかりなので、中尉は黙然として水面を眺めるばかりであったが、腕八は恐ろしい黒兵衛を捨てて逃げ去るべき場合が来たのを喜ぶ様に、一生懸命に櫓を押して右の岸に逃げ去ろうとする。既に岸の間近と為って、中尉は初めて心附いた様に、
 「腕八如何(どう)する。」

 腕「黒兵衛が云った通り右の岸へ漕ぎ付けて待つのです。ナニ彼は両肩に人を縋(すが)らせて居たから疲れたが、今度は自分一人だから大丈夫です。早く吾々は岸へ着き此の弥生さんを介抱するのが急務です。」
と云う。其のうちに早や岸へ着いたので、中尉は猶(なお)も無言のまま、弥生を助け川柳の茂った所に上ると、木の陰から、
 「オオ旦那様、今度も又此の少女と一緒ですか。その様な事ではないかと思って居ました。」
と云いながら現れたのは、忍び提灯を手に持った下僕(しもべ)鉄助である。

 縄「オオ俺は殆どお前を茲(ここ)に廻らせて置いた事を忘れていた。」
 鉄「直ぐに茲(ここ)から立ち去る様、馬も仰せ付けの通り三匹連れて来て樹の陰へ繋(つな)いで有ります。」
 縄「其れは好いが先ず弥生嬢を休息させる為、其の辺へ枯れ木の葉でも集めて敷け。」
と云う。

 弥生は実に半死半生の有様である。先程露人が恥ずかしい我が心の秘密を中尉に告げて、再び水中に沈んだ事も、知ら無い訳では無いが、唯夢心地に之を聞き、殆ど何がどうなったのか理解することは事出来なかった。やがて鉄助の集め敷いた木の葉の上へ横たえられる事になっても、殆ど死人の様に眠ってしまった。

 其の間に中尉は馬を検(あらた)め、再び黒兵衛の来るまで待と言って草の上に足を投げ出すと、鉄助は弥生の眠ったのを見届けて茲(ここ)に来て、中尉の傍らに居る腕八を見、
 「オヤ、グランビル市で見受けた悪人、貴様も矢張り一緒なのか。道理で此の少し川上で、貴様の連れていたラペとか云う犬が、宿無し犬のようにマゴマゴしているのを見たはずだ。」

 腕八は
 「フム、那(あ)の犬は俺の言葉に従わ無い様に為ったから最(も)う捨ててしまった。」
と云い、更に中尉に向かい、
 「此の通り無事に弥生嬢を救いましたから、茲(ここ)で約束通り報酬として秘密袋を頂きましょうか。」
 中尉は厳重に、

 「秘密袋を遣るなどと誰が約束した。」
 腕「イヤ袋の中の秘密を知らせて下さるとの約束ですから、袋を頂くくのも同じ事です。それとも茲(ここ)で読んで聞かせて貰いましょうか。鉄助の忍び提灯を借りて。」

 縄「袋は弥生嬢が持ち主だから、嬢が目を覚ました上、其の許しを得なければ開け無い。」
 腕「弥生嬢の目を覚ますのを待っていれば夜が明けます。夜が明ければ溺刑人を救った罪で我々一同、どの様な目に逢ふかも知れません。貴方も私も夜の明けないうち遠く落ち延びなければ。」

 縄「その様な事は知っている。」
と云い、中尉は再び岸に立って、気遣はしそうに水面を見始めたが、やがて、
 「サア、再びこの舟を漕ぎ出そう。事に依ると黒兵衛が又も助けを呼んでいるかも知れない。」

 腕八はこの上黒兵衛を救う心は無く、
 「無駄です。彼奴(きゃつ)は絶対水底で死んで仕舞いました。舟を出すには及ば無い事は勿論、茲(ここ)で待つ甲斐も有りません。早く落ち延びる事にしましょう。落ち延びて安全な土地に着き次第、直ちに秘密袋を開く事に。」

 縄「フム、明朝にも安全な地へ着けば袋を開いて中の書類を知らせて遣るが、先ず舟を出せ。」
 腕「イエ無益です。全く黒兵衛は死んで仕舞いました。」
 言葉の未だ終らないうちに、 
 「俺が何時死んで仕舞った。」
と怒った声で腕八の背後に現われたのは実に黒兵衛当人である。

 彼は下手に上陸し、岸を伝って茲(ここ)まで尋ね来た者に違いないが、終に小桜露人を救う事が出来なかったと見え、その身唯一人である。



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