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武士道 一名「秘密袋」 (扶桑堂書店刊より)(転載禁止)
ボアゴベイ作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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武士道上編 一名「秘密袋」 涙香小史 訳
第八回
弥生は縄村砲兵中尉の姿を見てハッと驚き、さては我が身が間道を偵察する有様を敵の士官に見つけられたかと、心騒いで十分には中尉の言葉を聞き取る事が出来ない。返事もしないで眼を垂れるのに、中尉は又弥生の姿が鄙(いなか)に珍しい美しさなのを見て、幾分の身分有る女と思ったか、今の存在(ぞんざい)《粗野》な言葉を改め、
「イヤ、嬢さん、此の守り袋は貴女の落としたのでは有りませんか。見た所では恋人からでも貰った品と思はれますが。」
と丁寧なる中に多少の冗談を含んで云うのは物に頓着しない軍人の気質でもあろうか。弥生はこの様な冗談を受け付ける様な浮付いた女では無いので、非常に真面目に、
「恋人などは有りません。」
と言い放つと、縄村中尉は猶(なお)も笑みを交え、
「私は又、この様な淋しい所で恋人にでも逢ふ約束でもして、其の恋人の来るのを待ってお出でかと思いました。今にも勤王軍が押し寄せる物騒な時ですから、恋人の為で無ければ私がお宅まで送って上げましょうか。」
と云ひつつ早くも弥生の手を取らんとす。弥生は周章(あわて)て岩の突端まで身を退き、
「私の家は此の町では有りません。」
此(こ)の一言に中尉は忽ち眉を顰(ひそ)め、
「エ、此の町では無い。之は怪しい。昨今、他の土地と交通を絶って居る程の町ですのに、女が単身で入り込んで、恋人を待つでも無く、要害の場所を徘徊して居れば、敵の間者と見る外は有りませんが。」
と徐々(しずしず)述べて弥生の顔を見詰めるので、弥生は我が運全く尽きたと思い、益々当惑の顔を赤めると、中尉はまさかにこの様な清げな少女が敵の偵察兵である筈は無いと思い直し、
「ナニ、爾(そ)う驚くには及びません。誰でも貴女を真実敵の間者などと思いますモノか。軍(いくさ)が済んで暇になれば、私は貴女の家を尋ね出し、親御に願って貴女を妻に貰いますよ。未だ恋人が無いと云うから、エ、軍人の妻などは真っ平ですか。アハハハ。」
と高声を放って笑うのも、忙しい中の一興のようで、胸に太陽と月の間ほども余裕の有る心広い軍人とは知られる。それで又も当惑気なのを、
「イヤ、其の積もりで中を直して分かれましょう。サア、仲直りの印に此の秘密袋を返しますから。その代わりに貴女も接吻だけ私へ許さなければ了(いけ)ません。」
と云いながら又も弥生の傍に戯れ寄るので、弥生は一声、
「イヤです。」
と叫ぶと共に身を躍らせ忽然其の立っている岩(がけ)の端より千尋の崖を飛び下りてしまった。
下は乱石畳んだ海岸である。飛び下りて助かる筈は無いと思うので、中尉は非常に驚いて、かの秘密袋を片手に持ったまま、岩の端(はず)れに行って見下ろすと、弥生は崖に突き出ている岩と岩との間を縫い潜り、見えつ隠れつ非常に巧みに降りて行きつつ有る。中尉は思はず、
「アア、怪我が無くて先ア好かった。詰まらぬ冗談を言って少女を一人死なせたかと心配した。」
と呟いたが、又忽ち思い直し、
「オヤオヤ、此の崖の案内をこの様に能(よ)く知って居るのは真に敵の偵察者では無いだろうか。」
と、穏やかでなく眉を顰(ひそ)めると、此の時背後から、
「砲兵中尉、何を眺めて居る。」
と問ひ掛ける人声あり。振り向き見ると、此の町の市長に使はれる軍曹狸田と云う者と、中尉自身の従僕鉄助と云う両人である。きっと市長の命令で中尉を呼びに来た者に違いない。中尉は返事もせずに猶も見え隠れする弥生の姿を眺めていると、狸田軍曹も同じく見下ろし、
「アノ女め、敵の為に間道を捜しに来たに相違無い。幾ら走っても逃がさぬぞ。」
と直ちに銃を取り上げて、弥生の姿が再び岩の上に現われるのを待ち、一発慌ただしく射撃するに、弥生は岩から落ちたか、将(はた)また飛び降りたか、又忽ちその姿が隠れてしまったのを、狸田は満足そうに、
「ソレ見ろ、一発で仕留めて呉れた。」
と云う。縄村中尉は非常に怒り、
「怪しからぬ事をする。上長の命を待たずに発砲すれば、二日間の禁足に処すと言う軍律を知らないか。」
と云い、猶も狸田の例に従い同じく射撃しようと身構えつつある従僕鉄助を睨み附けると、鉄助は銃を卸したが、狸田は強情に、
「でも敵の間者に極まって居ます、敵を射るのを咎める者こそ敵に内通していると見做すべきです。」
中「黙れ、俺が内通者か内通者でないか其れを見分ける人は外に在る。」
厳しい一言に、狸田は縮み込んだが口の内で、
「爾(そう)サ、市長が何と裁判するか。見るが好い。」
と呟(つぶや)くのは、市長へ密告する心でも起こしたのだろうか。其の内に弥生の姿は遥かに下の方に現われ、殊に其の甲斐甲斐しく走る様は、何の傷をも負っていないことが明らかなので、中尉は安心の息を洩らしながら、彼の秘密袋を己(おの)が衣嚢(かくし)に納め、両人と共に崖を上(のぼ)り、砲台の下を経て町に入ると、市役所の門前に市長を初め主だつ人々が頻りに群議を凝らしつつ有った。
市長は軍人に非ずとは云へ、当時の制度では共和政府の代理人と云う名義を備へ、市民を裁判し、生殺する全権をさへ握っていたので、其の勢ひ甚だ強く、軍(いくさ)の議までもその人の心で定まるほどの勢いである。市長は縄村中尉を見、他人には容易に加えない尊敬の言葉を以って、
「貴方は海岸の防御を巡検しましたか。」
と問うた。
中「唯今その帰りです。」
市「崖の上はどれ程の兵を要します。」
中「別に備へは要りません。到底敵が兵を率いて攀(よ)じ登る事の出来ない険阻です。」
狸田軍曹は傍から、
「敵の女が間者と為って自在に昇り降りするけれど、敵の兵は昇ることは出来ないと云うのですか。」
と嘴を挿(さしはさ)んだが、中尉は歯牙にも掛けず、
「それに敵は、今夜必ず主力を東南の門へ注ぎます。私はボース河の向う岸に現われた敵の兵勢を見、確かに爾(そう)察しました。我々は決して力を割いて此の海岸へ分つ事は出来ません。」
この様にして群議を凝らす間に、日全く暮れ、早や町の東南である門の外で敵の発砲する音凄まじく起こったので、縄村中尉は防御の大将とも云うべき身なので、早速其の方へ馳せ向うと、市長は其の影を見送り、心も勇み立つ様子で民兵等に号令し、
「サア、何れも中尉に従へ、卑怯な者は内通者と同罪だぞと叫ぶと、彼の狸田軍曹は進み出で、
「市長、私は内通者を密告します。」
市長は忽ち容易ならない色を現し、
「ナニ、俺の取り締まる市民の中に内通者など有る筈は無い。」
云ひながらも職掌なので、狸田を一方に呼び、
「内通者とは誰だ。」
狸「ハイ、砲兵中尉です。彼は唯今敵の間者と密話して居たのです。」
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