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武士道 一名「秘密袋」   (扶桑堂書店刊より)(転載禁止)

ボアゴベイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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  武士道後編 一名「秘密袋」                   涙香小史 訳

               第八十七回

 是から老人の語り出る所、きっと弥生の身の上の事だろうと思い、縄村中尉も一層耳を澄ますと、弥生自らは尚一層、今迄我が身が誰の子なのかを知らず、知らない父、知らない母を恋慕って明け暮れ、悲しんでいた事なので、愈々(いよいよ)其の父其の母が分かる時かと胸も躍って、張り裂ける想いがある。
 老人は今までの物語に非常に感情を高ぶらせた為、大いに疲れを覚えたのか、直ぐにはその語を続ける事が出来なかった。暫(しば)し呼吸を整えて居たが漸(ようや)くにして又口を開いた。

 「前にも申しました通り、薔薇(しょうび)夫人は、夫侯爵が海戦に出る前に妊娠して居られましたが、侯爵が不意にこの様に現れて、海軍大尉と決闘した時、まだ夫人のお腹の児は月足らずで有りましたけれど、此の決闘に夫人が非常に驚き悲しみもした為、その子は月足らずの儘(まま)で生まれたのが女の子で、月の足りないだけ誠に弱弱しい質では有りましたが、夫人は侯爵の生前の言葉を守り、是に松子と名を付けました。勿論此の児は密夫の種ではなく侯爵の血を承(う)けた者で、容貌も侯爵に似ているばかりか、全く軽嶺家の相続人なので、大切にして育てましたが、弱いながらも何(ど)やら斯(こ)うやら育ち上がりました。

 縄村海軍大尉は彼の決闘の有った後は、唯親類か友達の様に為(し)て夫人の許(もと)に、折にふれて訪れて居ましたが、此の松子を満足に成人させれば幾分か我が罪も消える事と思った様子で、非常に此の松子を大切にし、自分で保田医師の許(もと)へ行き、何(ど)うか松子が育つ様にしてくれなど頼んだ事も有った相です。

 そればかりか、ご自分が縄村家の財産を四分の一だけ松子の婚資に贈ると言って早速松子に譲りました。その語薔薇夫人の許へ来るのも夫人に逢う為よりも寧(むし)ろ松子の健康を見届ける為の様に思われました。是から松子が十七、八になる迄は別に何事も無く月日は立ちましたが、十九歳の夏の初め頃、松子は一種の気鬱病(きうつびょう)に罹(かか)り、食も進まなければ気も引き立たず、そうでなくても青白い顔が益々青くなり、次第に痩(や)せ衰えるばかりです。

 保田医師は切(しきり)に薔薇夫人に向かい松子を連れて旅行せよと言いましたが、夫人は先刻も申した通り、侯爵の死後は唯倹約の一方で田地山林なども追々売り払って金(きん)にする程の勢いなので、旅行は費用が掛ると言って中々応じませんでしたが、此の事を海軍大尉が聞き、幾等費用が掛っても、松子の一命には換えられないから、土地を転し、気を転ずるより外に治療の法の無い病なので、費用は幾等掛ろうが私が出して遣(や)ると此の様に仰(おっしゃ)った相で、夫人は初めて旅行する気になり、終に大尉の費用で或る湯治場に行き、八ヶ月ほど逗留して帰りました。

 此の逗留中に同じ場所に逗留して居る一紳士が有りました。それは小桜露人の父、小桜伯爵です。此の方は以前から軽嶺家とも縄村海軍大尉とも懇親の間柄なので、軽嶺侯爵が死んだ後も時々薔薇夫人の許(もと)へ来て居た事も有り、松子とも親密にして居ましたが、湯治場で八ヶ月も松子と共に逗留する間に、妻子ある身で有りながら、深く思い思われる中と為り、殆ど薔薇夫人の目に余る事さえ有ったとやら言う事で、薔薇夫人は無理に松子を引き立てて帰って来ました。

 此の後夫人は一度も我が家の外へ踏み出した事は無いのです。此の通り帰って来た当座は松子も健康が本に復した様に見えましたが、間も無く又病に成りました。何(ど)の様な病気で有るのか堅く松子を一室に閉じ込めて、多年使えて居る夫人の侍婢お律をさえも松子の部屋へ入れず、唯夫人自ら附き切りで看病し、時々保田医師を招き診察させるばかりです。

 この様な訳なので、松子の病の秘密は夫人と保田医師との外に知る者は有りません。保田医師は其の頃まだ年若い評判の好い医者で有りましたが、極めて沈着な、無口の人で、宛(あたか)も老人の様な気風なので、世間の人は老医と呼び、年は若いのに保田老医と呼ばれて居ました。この様な気質で有るが為に薔薇夫人も此の人だけには秘密を知らせても差し支え無いと安心した者と見えます。勿論私とても其の頃は松子の病気が何で有るか少しも知りませんでしたが、唯私は侯爵が薔薇夫人の室の床下に埋められている大秘密迄知って居て是を誰にも話しませんでしたので、夫人も此の男には最(も)一つ秘密を托することは、止むを得無いと思ったと見え、後に及んで、私へ打ち明けました。

 ここまで言えば、大抵お察しにも成りましたろうが、実は松子は小桜伯爵の種を宿し、妊娠の悩みで床に就(つ)いて居たのです。そうして漸(ようや)く其の子を産み落とすと共に其の身は息を引き取りましたが、生まれた子は薔薇夫人の為には初孫で、母の松子に似ず達者に育ちました。」

 是だけ話して来たのを聞き、縄村中尉は殆ど後の言葉を待つ事が出来ない様子で、
 「して其の子は、其の子は、コレ其の子の名は何と云う。」
と急(せ)き込んで聞いた。
 浦「ハイ、其の子が茲(ここ)に御座る弥生様です。小桜露人様の腹異(はらがわ)りのお妹子です。」
 此の語を聞くや弥生は、
 「エ、エ、露人様は私の兄さん」
と打ち叫び、打ち驚いて座に倒れようとすると、怪しやこの時、狭い小屋の次の間にも、魂消(たまぎ)るばかりに打ち驚いた叫び声が有った。

 何者なのか知らなかったが、其の声の何処(いづこ)にか聞き覚えが有る様なので、弥生も中尉も黒兵衛も一様に、
 「ヤ、ヤ、アノ声は。」
と云って振り向くと、暗い部屋から、
 「オオ今が今まで妹とは知らなかった。」
と云い這い出して来た一人は、病み耄(ほう)けた姿ではあるが、南都の大川に沈んだ小桜露人当人である。



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