busidou95
武士道 一名「秘密袋」 (扶桑堂書店刊より)(転載禁止)
ボアゴベイ作 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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武士道後編 一名「秘密袋」 涙香小史 訳
第九十五回
湖中の秘密は悉(ことごと)く分かった。排水口三箇所を開く時は、僅(わず)か三時間のうちに水を乾(ほ)し大金を取り出す事が出来る。だからば今から直ちに着手しても夜の明け無い中に事を終わり、世人の起き出さない間に其の金貨を処分することも難かしくは無い。そうと知っては縄村中尉も黒兵衛も早や目的を達した想いがする。何事も一刻の早きを望む今の身の上ではあるが、直ちに排水口に手を下そうとはしない。
今は小桜露人が息絶えようとしているのに驚き、弥生を第一として其の枕辺に額を寄せ、初めて少しの間でも彼の命を長くしようと勉めるばかり。湖中の秘密を語った保田老医も、
「オオ、既に死んだ浦岸老人の事は最(も)う嘆いても仕方は無いが、まだ呼吸のある小桜氏の命は何とかして取り留めたい。」
と云い、熱心に診療を試みたが、是も早や事過ぎて、其の一呼一吸に細り行く命は殆ど取り留める見込みも無い。
中尉も弥生も黒兵衛もそうと察して唯悲しみに呉れ、暫(しば)しは大金の事をさえ忘れた程の有様だったが、この様な間にも戸の外には、独り此の大金の外、何事をも思って居ない一人が居る。彼の悪人の腕八である。
彼は此の小屋の横手で、中尉の下僕鉄助と共に馬の番をして居たが、鉄助は幾日来の疲労に岸辺の木陰に胡座(あぐら)をかいたまま眠り込み、殆ど前後も知ら無い有様である。腕八は多年心を労した薔薇(しょうび)夫人の財産が、今こそ手に入る時が来たと思うと胸が躍(おど)って中々に眠りなど催さ無い。
小屋の中で中尉等が老人から何事を聞き取っているのだろうと、己(おの)れもそれを聞き逃してはならないと、直ちに小屋の窓下に身を寄せ、ヒタと其の戸に耳を充(あて)ると、老人の死際の長い物語、殆ど其の部屋の中で聞く程にも明らかに聞こえて来た。
彼は老人の物語が追々終りに近づいて、大金の事が明らかに分かって来ようとしているのに会っては、嬉しさの余り小躍(こおど)りしたが、この時一種の身震いは深く彼の骨髄の辺から発し、総身を揺すぶって彼自らすら留めることができなかった。
「エエ、どんなに嬉しくてもこの様に身震いがするとは余りに可笑しい。」
と云い、しかと窓の横木を握り、震るえを止めようと力を込めたが、震えは益々激しくして、終には歯の根まで音がするまでに至ったのは何のためだろう。
老人が肝腎な湖水の秘密を語り残して、其の息を引き取るや、彼の身震いは漸くに停まったものの、更に保田老医が、其の後を語り出るに至ると、身震いの上に、又一種の寒気を加へ、殆ど堪え難い想いがした。
「エエ、余(あんま)り嬉しい時には体がゾクゾクすると能(よ)く世間の人が云うけれど、是ほどだとは思わなかった。本当に水を浴びせ掛けられる様だぞ。」
と自ら呟(つびや)いたが、是は決して嬉しさの為の身震いでは無い。
非常に微妙(いみじ)き《たくみな》天罰が既に彼の罪悪を懲(こ)らしめようとして、其の作用を現して来た者である事は遠からずして知る事が出来る。
彼はやがて湖水の秘密をを聞き終わったので、最早中尉等が排水口を検(あらた)める為出て来るに違いないと思って待っていたが、小桜露人(つゆんど)の危篤の為何人も出で来ない。
小屋の中は寂然と静まって、空しく夜の更けるのに任せるばかりの有様なので、彼は忽(たちま)ち悪心を起こした。中尉等が出て来て湖水を乾せば大金は唯半分だけ我が物になるに過ぎ無い。大中小の排水口を一時に開ければ僅(わず)かに二時間余にして湖の水を涸(か)らす事が出来ると言う事なので、我一人で是を乾し、中尉等が部屋の中で悲嘆に暮れる間に大金を悉(ことごと)く奪い去るのが一番だ。
舟をさえ沈める恐れが有る程の大金なので、一人で悉(ことごと)く持ち去るのは難かしいことだろうが、幾等づつでも我が力に合うだけづつを幾度にも運び去り、いずれかに隠して置けば、たとえ残りを弥生と山分けにするとも、運び去った分丈は我が得分である。
若し仕事半ばにして中尉等に見咎められる事があっても、其の時には我が悪意を推し隠し、唯事を急ぐ一心から夜の明け無い間にと思い排水口を抜いたのだと云えばそれまでであると、夫々(それぞれ)言い抜けの工夫をまで案じ、猶(なお)も異様に寒気のする其の身を引き締め、先ず彼の樋之口(ひのくち)から排水口を検(あらた)めようと、独り湖水の土堤を向うの方へ廻って行った。
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