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巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
ナポレオンが、エルバの島に流されて早十ヶ月ほど経った1815年2月28日である。地中海の東岸から丁度そのエルバの島の付近を経てフランスの港、マルセイユへ巴丸という帆前船が入って来た。
これはこの土地でよほどの信用のある森江商店の主人森江氏の持ち船で有るので、波止場に居合わす人々が立ってその近寄る様を見ていると、既に港の口に入っているのに何故にか岸のそばに来るのが遅い。何か船中に間違いがあったに違いないとの心配が言わず語らず人々の胸に生じた。
けれど、船そのものに故障ができたとは見受けられない。船は無事に前、中、後、3本のマストに帆を上げ舳先(へさき)には水先案内の傍に年十九か二十ばかりの勇ましい一少年が立って、殆(ほとん)ど船長かと見えるほどの熟練を以てきびきびと水夫等を指図している。それだのに何と無く尋常(ただ)ならないところが有る。
陸にいた人々のうち、一人は最早心配から、何もしないで待ってはいられないと言う風で、手早く岸の小船に飛び乗り、自分で漕(こ)いでその傍(そば)まで漕ぎつけた。これはこの巴丸の持ち主森江氏である。漕ぎつけて上にいる彼の少年に声をかけ、
「アア、団君か、どうしたんだ。船中全体が、何だか陰気に、ふさぎこんで居る様に見えるがーーー。」
団と呼ばれた彼の少年は主人への敬礼に帽子を脱ぎ、
「オオ、森江さんですか、誠に不幸なことが出来ました。船長呉(くれ)氏がイタリア沖で死なれました。」
船主森江氏は、
「シテ、船荷は、積荷は」、
団少年;「それだけはご安心です。荷物は別状ありませんが悲しい事に呉船長はーーー」
森江;「誤って海にでも落ちたのか」、
団;「イイエ、急な脳膜炎で死なれました。」
言いつつも少年は水夫を顧みて帆の事から碇(いかり)のことにまで指図を与えるのは、船長が死んだため、自然自分が指図の役割を勤めていなければならない為であろう。
指図が済むと又持ち主の方に向かい、
「イタリアの港を出るとき船長は港係の長官と長い間熱心に何かお話でしたが、それからと言うものはひどく心配のご様子で、間もなく今申す脳膜炎となり、三日三夜苦しみ通して終に最後を遂げられました。
その亡骸はギグリヨ島の浦に形式の通り葬りまして、勲章と剣だけを奥様へ届けるため、我々が持って来ました。ホンに十年間も英国との戦争に従事した人だというのに、もったいないことをしました。」
森江氏は慰めて、
「嘆くな、団友太郎、誰だとて、一度は死ぬるは、エエ、年取った者が死なねば若い者が出世できない。」
言葉の裏には暗に汝(なんじ)を船長に取り立ててやるとの意が見えている。
もっとも無理は無いところであろう、このように対応しながら、この少年団友太郎が水夫を指揮する様子を見ると、規律が良く保たれて、あたかも自分の指を使うように自由である。
森江氏;「先ず、荷物に支障が無ければ」
団友太郎;「ハイ、荷物のことはどうか荷物取締の段倉君からお聞きください。今度の一航海は余程儲(もう)かったということですから。」
言いながら船べりに縄を下ろせば、森江氏は水夫も及ばないほど巧みにこれをよじ登り、直ぐに甲板に上がって来た。そして団少年がなおも忙しく指図している間に、ここへ出て来た荷物係の段倉という男に向かった。
段倉は団友太郎より年が五、六歳も上であろうか。眼に油断のならない光があるのは何だかゴロ猫のように見え、何から何まで団とは大違いである。団が水夫らに敬われ愛せられているのと同じ割合に、段倉は憎まれ嫌われている。けれど、主人の信用を得ていることは団と似通ったものだと見える。
主人森江氏;「聞けば段倉君、呉船長が死んだそうだが」
段倉は目下に向かっては非常に厳しいと共に、上に向かっては非常に丁重だ。先ず声から和らげてかかり、
「ハイ、どうも早お気のどくでなりません。森江商店のような大信用ある商社の船を操るにはとてもあのような老練な方でなければ」
と早や団少年が船長に取り立てられはしないかと主人の顔色を読み取って、妬(ねた)ましさに予防を張っている。予防と見せずに予防するのが段倉の段倉たるところである。
森江氏;「ナニ、船を操ることは、友太郎のような少年だとて、少しも違ったところは無いよ、実に友太郎は慣れたものではないか。」
と言いつつ団少年の方を見返ると、段倉は目に又も羨(うらや)ましさの光を有し、
「ハイ、自分では一人前に出来る積りで居ます。少年と言うものは兎角自信の強いもので、船長がなくなられると直ぐに、誰にも相談せずに、自分が指図役になったところなどは、感心なものですよ。」
何だか、言葉に毒がある、その毒を甘い蜜のように聞かせるのだ。
森江;「勿論友太郎は船長の手助けに乗っているのだから、船長の後をとりあえず引き受けるのがその義務と言うもの。誰にも相談する必要は無いのさ。」
段倉;「ハイ、それはそうでしょうとも、けれどそのお陰で、エルバ島の所で船を一日遅らせてしまいました。」
エルバ島とは耳に着く言葉である。普段なら何でもないが、時が時だけに耳に着くのだ、今にこの島から、天地も覆(くつがえ)るほどの風雲を巻き起こしはしないかとは、誰しも気にしている所である。果たして森江氏は耳をそばだてた。
「彼のエルバの島で船を一日、何所か船体に損傷でも出来て、」
段倉は得たりと、
「ナニ、損傷が出来ますものか。ただ、自分で上陸して見たいというつまらない望みのほかには何の原因も無いのです。」
これは船主として聞き捨てがたいところである。船の指図を引き受けた者が、自分の慰みに一日の航路を遅らせる道理は無い。森江氏は友太郎の方に向かい、
「団君、団君」
と呼び立てた。
団少年は指図の最中である。振り向いて、
「少しお待ちください。」
と言ったまま、水先案内に力を合わせ、水夫に碇を下ろさせている。段倉はもう主人の顔色を見て、
「我が事成れり」
と思った様子で、荷倉の方に引っ込んだ。しばらくして団少年は来た。 「何か御用事ですか。」
森江氏;「用事とて、実はエルバ島へ一日船を着けて居た訳を聞きたいのだ」
団少年はよどみもせずに、
「ハイ、呉船長の遺言を果たすためでした。船長が死に際に、何だか小包物を私に渡し、これをエルバの島に居るベルトラン将軍に渡してくれと言われました。」''
''呉船長はナポレオンの下に戦った人であるから、無論その党派である。ベルトラン将軍とも何か密(ひそ)かに連絡を取り合って互いに気持を通わせて居たに違いない。このような人を船長に雇って置く森江氏とても、実は心をナポレオンの方に寄せて居る人だから、この返事を聞いて、たちまち顔が晴れ渡ったようである。
「シテ、将軍に会ったのか。」
友太郎;「会って手渡し致しました。」
森江氏は辺りを見回し、ズッと声を潜めて、
「皇帝には拝謁(はいえつ)しなかったのか。」
皇帝とは勿論ナポレオンのことである。
友太郎;「ハイ、私が将軍と会っているその部屋へ、ずかずかと皇帝がお出になりまして」
森江氏;「それじゃお前は、皇帝と直々に話もしたのだな。」
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