巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 4.6

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

百十二、「窓から誰か」

 「どうなさった」と問われて子爵夫人露子の方は、これではならないと気を取り直したらしい。今まで踏む足も定まらないほどに見えた身が、たちまち柱から離れ、何の異常も無く、緩やかに、ほとんど女王の歩みかと思われるように歩んでこの部屋に入って来た。ただ取り直すことの出来ないのは青くなった顔の色だけである。そうして伯爵、子爵、及び武之助の前に立った。きっと必死の思いで自分の身に力を付けたのだろう。

 「いいえ、どうもしませんけれど、貴方の命を助けてくださった方と聞き、何とお礼を申せばよいかと考えていたのです。」と軽く言い開きはしたが、声も中々いつものように爽やかでは無い。確かに胸のうちはまだ騒いでいるのだ。その騒いでいるのを察せられない様にしようと、直ぐに言葉を続けて伯爵に向かった。

 「詳細はたびたび武之助から聞いておりますが、当家が貴方から受けた大恩はどの様に御礼を申し上げても尽きません。武之助は私供夫婦の中の一人息子、貴方が助けてくださらなければ、当家の血筋は彼とともに尽きるところであったかも知れません。伯爵は口の中で「どう致しまして、」と言ったらしい。そうして、余り恭しすぎると思われるほどに首を垂れた。これは子爵夫人よりも一層青い自分の顔色をしばらく紛らわせる為だろう。

 やがて伯爵も気を取り直すことが出来た。そうして、更に首を上げた時には、少しも心が動いた後が無く、単に恭しいだけの賓客である。「イイエ、ご子息を助けたなどと、少しもその様な手柄では有りません。ただ誰でもなすべきことを、誰でもなすようになしたと言うに過ぎないのです。それをその様にお礼などおっしゃられては、この後参上出来にくくなりますから。」

 この後しばしばこの家へ「参上」する積もりはこの一語の内にこもっている。
 子爵;「イヤ、もうどうかこの家を我が家と思い、案内も無くお出でくださるようにお願いします。」子爵がこれだけ打ち解けた言葉を吐くのは真に珍しい。余ほどこの伯爵の言ったお世辞に酔わされたのに違いない。子爵夫人も語を継いで、「実に武之助は、貴方のような方とお近づきを得て幸せです。」果たして当家の幸せだろうか。

 伯爵は笑みて再び、「どういたしまして」と言った。この笑みたるや、絵描きも写すことが出来ず、人相見もその意味を分析する事は出来ない。
 兎も角、伯爵は今日はこれ以上長居をすべきではないと思った。一度こうして近づきになってえいさえすれば、後は自分の都合の好い時に、何時でも訪ねて来て長居をする事が出来る。それに又子爵の方も、実は何時までも客の相手になって居られない日であるのだ。

 伯爵が早やお暇(いとま)を言う下ごしらえに、時計を出して眺めると、子爵も同じく時計を眺め、「伯爵、今日はどうか夕刻に私が帰って来るまでゆっくりとお話を願います。私は今日二時から開かれる貴族院へ、外交の事につき演説の通告をして有りますので、三時間ほど失礼しなければなりません――――、」

 段倉は衆議院で財政意見を演説し、次郎は貴族院で外交の意見を演説する。誠に妙な世の中だ。政治とはこのような浅薄なものかも知れないと、伯爵は腹の中で一人嘲るのを禁じえなかった。
 子爵;「私の居ない間に、妻も武之助もゆっくりとお話などを伺いたいでしょう。」

 伯爵;「イヤ、私も今日はこれでお暇しなければなりません。実は旅行馬車を当家の玄関に直ぐに着けたような始末で、まだ自分の住いがどの様な家だか、それさえ見届けていませんので、これから行って色々指図も与えなければなりませんから。」

 実は子爵夫人も全く座に耐えられないらしい。必死の思いで、気を引き立てていたけれど。多分は腹の中で様々な疑いやら心配やら、麻を乱したようにもつれ結ばり、早く自分の部屋に退いて、気を落ち着けて考えてみたいのだろう。

 「なるほど、その様なご事情なら、今日お引止めをするのはかえってご迷惑かも知れません。お住いが出来上がれば、又こちらからも伺うことに致しましょうし。」
 伯爵;「ハイその節は、是非どうか」

 武之助はそばから伯爵の功徳を述べ立てるように、「おっかさん、伯爵のお住まいは必ず今夜一夜のうちに造作から飾り付けまで全て出来上がりますよ。ローマから三百里の道を昼夜兼行で一分も違わずに来る方ですもの。ご自分では二,三分遅れたと仰いましたけれど、丁度時計の鳴るのと一緒にお出ででした。私は明日貴方のお住いにうかがいますよ。エ、伯爵、明日うかがってよいでしょう。」

 伯爵;「ハイ、どうか。」
 今日はこれだけで沢山だといよいよ伯爵は辞して去ることになり、それぞれの挨拶も済んだ。武之助は思い出したように、「アア、ローマで馬車を拝借したご恩をここで返しましょう。伯爵、旅行馬車のままでは不似合いですから、お馬車の調整が出来るまで、何日でも私のをお使いください。」

 伯爵;「いいえ、多分春田路が馬車の用意をしてあるだろうと思います。兎に角、お玄関まで出てみましょう。」
 こう言って子爵と武之助に送られて二階を下った。勿論子爵夫人露子の方はそのまま二階に留まった。

 そうして、やがて玄関へ出てみると、実に驚かざるを得なかった。果たして二頭立ての馬車が待っていて、その御者はなるほど武之助がローマで見た春田路とか言う家扶(かふ)である。そうして、その馬車は、第一流の馬車師コルレルが作ったもので、馬はドレークと言う、有名な伯楽《ばくろう》が数日前に一頭七千円ずつに値を付けられて拒絶したとして社交界に知れ渡っている逸物である。

 伯爵は先祖代々からこのような馬車に乗りなれている人のように、非常にゆったりと、非常に自然にこれに乗り、何気なく今辞して来た二階の方を眺め上げたが、丁度子爵夫人の居た辺の窓のカーテンが、風も無いのに異様に動いていた。窓から誰か覗いていて、急に引っ込んだものとしか思われない。

第百十二終わり
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