巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

十四、梁谷法師

 今ここで、もし少しでも抵抗すれば直ぐに射殺されてしまうのだ。友太郎はいっそ抵抗しようかと思った。射殺された方がよっぽど好い。生きながらの地獄ともいうべき泥埠(でいふ)の要塞へ押し込められてしまうよりは。

 泥埠の要塞という恐ろしい名が、彼の耳には半鐘のように響いている。けれど、彼はこの様な間にも蛭峰検事補の約束を思っている。あれほど堅く言葉を使ってこの身に、立たせて誓いまでさせたのだから、その中にはどうにかしてくれるだろうと、ただこの約束の為だけに、兎に角生きながらえる気になった。後で思うと、この様な気にならないほうがよっぽどましだった。

 その内に舟は岸辺に突き当たった。ここは泥埠要塞の断崖の少し崩れたところだ。直ぐに二人の憲兵に両手を取られ、船から引き上げられ、そうして、後ろからあの士官が、帯剣を抜き身にしてついて来る。スワと言えば直ぐに刺し殺してしまうかと思われる程の堅固な用心で、余程危険な国事犯をでも扱うような様子だ。

 友太郎はぼうっとして、夢見心地だ。長い石段を引き上げられ、それから番兵の銃剣の光っている門のようなところを幾つも潜(くぐ)らされ、道程(みちのり)にすれば十丁(1090m)余りも歩んだかと思う頃、立ち止まった。

 初めて顔を上げて辺りを見ると、月の無い晴れた夜半で、薄々と分かるのは四方の高い塀である。自分の身は塀に囲まれた建物と建物との間の庭のような所に立っているのだ。もう逃げようとしても逃げる道は無い。
 逃げる道が無いのに安心してか、憲兵の1人は立ち去ったが、直ぐに又1人の役人を連れて来た。後で分かったが、この役人は牢番であった。

 「ドレ、囚人は何処にいます。」と言い、残った憲兵の「ここに」と答えるのを聞いて、「よろしい、私が連れて行きます。」と言って更に友太郎に向かい、「サア、この方の後に付いて」

 裁判も何も受けずに早や囚人である。地の下へ潜り込むかと思うような低い建物の下を又低く潜(くぐ)って牢と思われる所の入り口に着いた。目に見えるのは古来幾人の涙に湿ったろうかと疑われる四方の壁ばかりである。

 牢番;「今夜は典獄(所長)はもう寝たから、兎も角この部屋でお明かしなさい。明日は外に移されるかもしれません。ここへ水とパンと、そうして寝床の代わりに新しい藁(わら)とが置いて有りますから。」こう言って友太郎を牢のような部屋の中に押し込め、勿論形の通りに戸も外から錠を下ろし、「お休み」と嘲(あざけ)るような言葉を残して去った。

 室には明かりもない。ただ室の外にくすぶった、常夜灯が薄暗く灯(とも)っている。ここに置くと言った物が何処にあるのか、慣れない目には勿論見えない。

 翌朝牢番が回って来て見ると、この囚人は昨夜立っていた所にそのまま立っている。身動きもしない様は石になったかと怪しまれる。ただ生きているように見えるのは、腫れた瞼(まぶた)の間から、恨みの光を放つ眼ばかりである。

 牢番;「昨夜寝ませんでしたか。」
 友太郎;「知りません」牢番はパンも水も手付かずに有るのを見て、「腹が空きはしませんか。」
 友太郎;「知りません」実に語を発するのさえ、うるさいとの様子である。
 牢番;「何も用事は有りませんか。」と言い捨て去ろうとした。

 友太郎はたちまち叫んだ。「典獄に会わせてください。」
 牢番;「その様なことが出来るものか」と言う顔で、ちょっと振り向いて去ってしまった。ここに至って初めて友太郎の心には、今まで起ころう、起ころう、としていた一切の泣きたい気持ちが沸き返るように上ってきた。彼は床の上に身を投げて声を放って大声で泣いた。

 思えばここへ来る舟の中でなぜ海へ身を投げなかったのだろう。憲兵の気が付く前に、幾らでも身投げは出来ただろうに、そうさえすれば泳ぎには熟達しているし、どこかの岩角へでもしがみついていれば、随分通り合わす舟に救われ、他国へ行くことも出来た。何処の他国でも水夫の身は食うのには困らない。身が定まった上で、お露をも、父をも呼び寄せることはでき、生涯泥埠などと言うこの様な恐ろしいところを知らずに済むことが出来たのに。

 全くその通りである。友太郎は幼い頃から水夫としてこの近海の大抵の国は故郷のの様に好く知っている。そうして、イタリア、スペイン、その他諸国の言葉を自分のの国の言葉のように話すのだから、何処へ行っても、困ることは無い。それがただ、蛭峰の約束を当てにしたばかりに、この様なことになった。

 真に彼は、藁(わら)より外に敷物の無い大地の上に泣き暮らして、又泣き明かした。ナニが何でもこう成っては典獄に会って、この身がまだ裁判さえも、予審の調べさえも受けていないことを訴え、聞いてくれなければ争っても見なければならない。

 この又翌朝、再び牢番が来た時に、又典獄に面会させてくれと頼んだ。けれど、それは出来ないとの同じ返事を得たため、それならどうすれば会えると、厳しく問い返してやまなかった。牢番は腹を立て、「その様な無理なことばかり言うと、おとなしくなるまで食い物は持って来ません。」この言葉が総ての囚人に対して何よりの脅しであるのに、友太郎には少しの効き目も無い。

 友;「持って来なければ食わないまでです。」
随分、絶食もしかねない剣幕である。けれど、絶食をして死なれでもしても困る。その実、囚人一人に付き、まかないの上前や何やかやで、日に六銭(六百円)の儲けになるのがこの牢番の役得だから、決して本尊を死なせたくは無い。だから、夕方再び来て、再び問われた時には、幾らか物柔らかに、「それほど典獄に会いたいなら、大人しく獄則を守って、機会を待つのが近道だ。」

 獄則を守る者は少しの間、庭の散歩を許されるから、丁度そこに典獄が通り合わさないとも限らない。」
 友:「どれほどの間、獄則を守れば。」
 牢;「そうさ、半年か、いや一年位も」

 一日も待てない身が、一年とは、それまで生きていられないだろう。友太郎は絶望のあまりに、又考えを定め、少し言葉を和らげて、「貴方に百円(現在の36万円)、全く百円を上げますから、どうか私の書くたった二行の手紙をスペイン村まで持って行ってくださらないか。」

 牢:「百円今持って居ますか。」
 友:「持っては居ないが、その道で私の家によってくれれば。」牢番は高笑いをした。「くれないところで長官に訴えるわけにもゆかず、丁度お前さんは梁谷法師と同じ事を言っているワ。今に気でも違わないように気を付けるがよい。」

 梁谷法師とは誰のことだか、勿論分からないから、「それは誰です。」と問い返すと、
 牢番;「丁度この部屋に居たイタリアの坊様だ。典獄に牢から出してくれればある所に、宝を隠してあるから、そのうち百万円(現在の36億円)を分けて上げると言い、そのことばかり繰り返していたが、ついに。」

 友;「遂に釈放されましたか。」
 牢番;「遂に発狂して、二年前から今もって、穴倉にある、土牢に入れられている。」
二年前から今もって土牢とは、聞くのさえも身の毛が逆立(よだ)つ。真に話よりも恐ろしい所である。

 友太郎はもう考えることも何も出来ない。絶望の余り我知らず、この部屋の中にある唯一脚の腰掛台を取り上げ、私の手紙をスペイン村まで届けてくれるか、嫌だと言えば、今度お前がこの部屋に入った時に、出し抜けにこの台を持って殴り倒してしまう。」と言い、腰掛台を水車のように振り回した。

 牢番は驚いて身を引き、「アア、丁度梁谷法師と同じだ。法師も初めはこうだった。いよいよ発狂するのだな。よろしい、直ぐに典獄に会わせてやるわ」
呟いて下がったから、本当に典獄に会えることかと、少し気を引き立てて待っていると、牢番は間もなく曹長と四人の兵士を連れて現れ、曹長に命じて、

 「典獄の命により、この囚人を最下の室に移すのだ。」
最下の室とは土牢である。そうとも知らずに引いて行かれて、穴のような所を下に、下にと降り、ついに真っ暗な所に投げ込まれた。何にも見えない。ただ聞こえるのは曹長の声で、「来る早々土牢とは余程危険な罪人と見えますな。」
 牢番;「危険ですとも、極々性の悪い狂人ですもの。」

 友太郎は初めて理解が出来たが、事既に遅しである。
全く地獄の底にも同じ土牢へ入れられたのだ。逃げ去る望みも、叫び声が人に聞かれる見込みも、何も無い。

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