gankutu146
巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2011. 5.10
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
百四十六、「心得ました」
入って来た巌窟島伯爵は、二人が抱き合って涙にくれているような状況を見て、「オオ、ご両所は泣いておられるか。」
大侯爵は息子を放して、「ハイ、久々の対面に、うれし涙が先に立ちまして。」
小侯爵も間を置かずに「泣くまいとしてもつい涙が。」
伯爵は笑ましげに、「イヤ、涙が出るほど嬉しいとは、羨ましいわけですが、兎も角、おめでたはおめでたとして、まずお二人ともこの地に滞在の手はずを決めなければなら無いでしょう。」と言い、これから親切な忠告の口調で宿のことから、馬車の買い入れや、衣服を注文する仕立て屋のことまで一々語り聞かせ、更に小侯爵に向かった。当座の小使いに用立てるようにと言って、先刻大侯爵に与えたと同じほどの金を与えた。
二人が猶予も無く伯爵の言葉を承知したのは勿論である。最後に伯爵は「お二人とも、これからは交際なさるに付いても人に向かって正直に、親子が久しぶりに出会ったの、或いは息子の方が幼い頃から敵にさらわれていたのと有りのままの事実を言いますと、かえって人が作り話のように感じるかもしれませんから、矢張り、世間に有りふれたように、息子をこの国の或る地方にある高等学校へ入れておいて、このたび丁度卒業したから、ロシアに出張の途中このパリーに立ち寄って呼び寄せたのだとこう仰(おっしゃ)るのが好いだろうと思います。」
侯爵;「いかにもお説の通りです。それに又実際私は近じかロシアにも行きたいと思っていますから、そう言うのもまんざらの偽りりではありません。」と妙にロシア行きのことに力を入れて答えるのは、他日万が一に、この土地を逃げ出さなければならない様な場合があっても、いくらかこの口実が役に立つかも知れ無いと、後々の事を考慮してのことだろう。
息子の方はそうでは無い。「お父さんが、ロシアにお立ちなされても私だけは矢張りこの地に。」何時までも居て一年に二万円の手当てで、贅沢を尽くしたいのだ。
伯爵が父に代わり、「そうですとも、貴方をこのパリーの社交界に入れ、先刻も申した通り、なろうことなら然るべき縁談までも出来るようにさせたいと言うのが父上のお望みですもの、ねえ、侯爵。」
侯爵;「そうです、そうです。」
伯爵;「お二人の名誉をもって社交界に入るのは訳も無いことで、必ず遠くないうちに招待状の雨が降るようにも成りましょうけれど、ここに差し当たり、私が晩餐会にお招きして、歴々の方にお引き合わせ致しましょう。」
この引き合わせに多分何かの目的が潜んでいるのに違いないと二人は察した。何の目的にもせよ、早く達するところまで達して、自分たちの立っている今の足場がどれ程危険かどれ程安全かを見届けたい。
侯爵;「有り難くお招きに預かりましょう。」
小侯爵;「その晩餐会は何時でしょうか。」
伯爵;「イヤ、詳しいことは招待状にしたためて明日お宿に差し出だしますが。明後土曜日の午後六時からです。これから侯爵が取引なさる有名な段倉銀行の頭取、男爵段倉喜平次君夫妻も来客の中にあります。取分けこの方へは親密なお近づきをなさるのが得策でしょう。」
侯爵;「心得ました。」
小侯爵;「私もですか。」
伯爵;「勿論です。」
小侯爵;「心得ました。」
もし、伯爵が、この土曜日の晩餐会をもってかねて計画する大仕事の序曲とする積もりならば、こうまで準備に手を尽くすのも無理は無い。或いはこの上にも更にどれくらいの準備があるかも知れ無い。それはさて置き、二人は先ずこれで用事も尽きたと見て立ちかけたが、侯爵の方は又何かを思い出して、「当夜の衣服はどう致しましょう。」
伯爵;「貴方は軍服に限ります。多分はお国の家扶から届ける行李の中に佐官の服や勲章なども有ましょうから、なるべく正式になさるのがよろしい。」
軍服ならばこの人のぎこちない姿勢にもっとも似合うはずだから、贋物と分かる恐れは無い。
小侯爵;「私は」
伯爵「貴方は学生上がりの事ですから、余り派手には及びません。なるべく小意気にそして上品に、いかにも大家の若殿だと感心されれば良いのです。
難しい忠告だけれど、もとより永太郎の柄にあるのだ。
侯爵;「心得ました。」
小侯爵;「心得ました。」
これで両人は辞し去った。伯爵は直ちに窓のところへ行き、その立ち去る様子を見たが、全くの親子のように二人手に手を取って引き合って密接して歩いている。
伯爵は笑って呟いた。「あのように揃(そろ)いも揃った二人が、本当の親子でないのは残念だ。二人とも牢から出されて間もない身で、根性まで同じことなのに」
第百四十六終わり
次(百四十七)
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