巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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gankutu149

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 5.13

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

百四十九、「婚姻政略」

 やがてこの二人の公証人は、華子に向かい、野々内弾正がどの様な方法で話をするかを聞いた。華子の返事は、公証人が来る道で老僕から聞いたところと同じでことである。

 少しも疑うところが無い。けれど、念のために直々弾正の顔の前に行き、「貴方は「然り」と言う意を表すためには眼をお閉じに成りますか。」弾正;「然り」「否と言うときには如何されますか。」弾正はこうすると言うごとく目を瞬(まばた)いた。果たしてこの信号が間違いなしに行われるであろうか。公証人は試みに更に二、三の事を聞いてみたが、少しも間違ったところは無い。

 「貴方は遺言を作りたいとお思いですか。」
 弾正;「然り」
 公証人;「それを作るのに付いて、貴方の意思の通訳人に華子嬢を用いて差し支えが無いと思いますか。」
 弾正:「然り」
 最早躊躇するところは無い。公証人は更に蛭峰に向かい、「このような次第ならば我々は職務として、この当人の依頼に応じなければなりません。」と言い渡した。蛭峰も最早仕方が無い。不承不承に屈服してしまった。

 これからいよいよ華子の通訳で、遺言に書き入れるべき弾正の望みを問い質した。勿論簡単には進まなかった。或いは先刻華子の用いた方法の通り字引を用いたり、数字を「一から零まで示しておいて、順に一々指し示して財産の総額を聞いたり、一通りの手数ではなかったが、しかし驚くべきである。この無口無声の病者がついに、自分の希望だけをかなり精密に公証人に知らせることが出来た。

 その結果を摘まんで言いば、弾正の財産は株券で九十万円(現在の六十三億円)ある。そうして、4朱(4%)の保証利子が付いている。全体ならば華子へ譲るべきだけれど、華子の結婚が不承知なので譲ることは出来ない。もしもこの縁談を破り、更に華子自身の気に入った夫を持たせるならば、改めて相続人を定めるが、そうでない時はこの九十万円は共和党のクラブに寄付すると言うのである。兎も角弾正はこの遺言でもって華子への約束を守ったのだ。

 華子と毛脛安雄との結婚は妨げようと勤めたのだ。流石は昔共和党の首領とも言われた剛の者のやりかたである。しかし果たしてこの遺言の指す意が、かの縁談を破るまでに蛭峰の心を動かす事が出来るだろうか。
 これを聞き終わったときの蛭峰立腹は一通りではなかった。それも無理は無い。この一家一族の中にある九十万円の大財産がただこの一挙で形無しになってしまうのだもの。

 彼れは叫んだ。「私は争います。争います。若しこの財産が貧民院に寄付するとでも言うのなら、まさか貧民の幸福を奪うには忍びませんから、喜んで服しも致しますが共和党の資本になると有っては争わずにはいられません。」中々上手い口実を用いる。成るほどこれもさすがである。大検事を勤める人の口である。誰も一言の批評を加えることが出来ない。ただ一人、先刻公証人を向かえに行ったかの老僕が、一同の静まり返った中に嘲った。

 「争うと言っても争う道は有りません。嬢様と毛脛安雄さんとやらの縁談を取り消しさせればそれで良いのです。安雄と言うのは、昔弾正様の敵であって誰かに殺されとか、河で溺れ死んだとか言う毛脛将軍の息子だから、弾正様がこの縁談をお喜びなされないのはもっともです。」

 いかにもこの言葉通りである。この縁談を破りさえすれば九十万円(現在の約六十三億円)は矢張りこの一家の一族から外には出ないのだ。蛭峰夫人は夫を諌(いさ)めた。「この縁談を取り消そうでは有りませんか。何も九十万円を捨ててまで、安雄さんを婿にしなければならないはずは無いでは有りませんか。」この夫人の心では、兎に角この九十万円を保存しておけば遅かれ早かれ自分の息子重吉の物になるのだと見込んでいる。しかし蛭峰は中々応じそうな気配は無い。

 彼の本来の性質から考えて見れば、九十万円を取り留めるためには一も二も無くこの縁談を取り消しそうに思われるけれど、実はこの縁談は九十万円にも代えられない意味があるのだ。それはなぜかと言えば世に好く例のある政略結婚というもので、自分の一家に大なる光を添えたいのだ。

 毛脛の家は代々国王党で、特に安雄の父が共和党に殺されたがため、朝廷でも毛脛将軍を真に勤皇随一の人であったかのごとく見なしている。これに反して蛭峰は自分一代のにわか拵(こしら)えの勤皇党であるが為、たとえ朝廷の信任が深い様でも、ややともすれば物足りないところがある。特に自分と出世を競う同僚者などからは、機会さえあれば蛭峰は共和党の家筋だなどと吹聴される。

 もしも今自分の家が結婚でもって勤皇随一の家柄と結び付けば、自分は大検事であるばかりか、大宰相にもなれるのだ。今までも既にその心が有って、米良田家の令嬢礼子を我が妻としたけれど、礼子は華子を産み落としたばかりでこの世に無い人となった。もしもその後更に何らかの手段をもって他の勤皇党の家柄に結びつき、朝廷における自分の名誉と勢力とを上げて置いたなら、今すでにいや、幾年も前に、大宰相になっているところなのだ。

 この様な深いわけがあるので、中々九十万円(現在の六十三億円)のためにこの縁談を取り消すことは出来ない。彼は断固として言い切った。「どの様な事情があっても安雄と華子は夫婦です。」と。そうして席を蹴って立ち去った。妻も続いて去ったが、丁度その時その家の客間には巌窟島伯爵が来ていた。

 それはさて置き、後に華子は絶望して「どうしましょう、お祖父さん。あなたが折角心を尽くして下さっても水の泡です。」と泣いた。弾正の目は「否、否」とまばたきした。
 華子;「おや、否と仰ればまだこのほかに工夫が御ありですか。」
 弾正;「然り」
 華子;「その工夫は確かに効能が有りましょうか。」
 弾正;「然り、然り」

 年はすでに八十に達し、身は不随の病にかかりながら、なお自分の息子蛭峰のような豪者と健闘するとは、この人の名が歴史の上に今もって輝いているのも偶然では無い。しかし、ただその工夫と言うのがどの様な工夫だろう。果たして、その「然り」と言う通り、「確かに効能が有る」だろうか。又見ものの一つと言うべきだ。

  • 欠損していた最後の部分を5/20に補完しました。

第百四十九終わり
次(百五十)

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