巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

gankutu150

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 5.21

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

百五十、「運の神、福の神」

 これより二時間の後、二人の公証人は野之内弾正の遺言状を正式に作り終わって、この家から辞して去った。
 それはさて置き、弾正の所為を怒って憤々(ぷんぷん)として自分の居間に引き上げた蛭峰は、続いて入って来る我が妻より客間に巌窟島(いわやじま)伯爵が待っていると聞き、苦い顔をしてようやく怒りを押し静め、妻と共に客間に出た。けれど、夫婦とも腹の中は弾正の遺言状に対する無念で満ちているため、自ら言葉の方がその方にそれた。

 最初に口を開いたのは妻の方で、その言葉は「伯爵、まあお聞きください。人の家には思わない不幸の有るものではないですか。私共では今日一日に九十万円の財産を損失致しましたよ。」というのであった。伯爵はこの様な事を聞きに来たのではなく、明日の晩餐会に蛭峰を欠席させないために、いわば約束に釘を打ちに来たのだけれど、何しろこの家の内事を聞くことは何より有り難いところである。

 実は内事を聞くために前から探りの人を入り込ませているほどの次第である。今はそれが、直接夫婦の口から自分の耳に聞きとることが出来るのだから、逃すべからざる好機会というものだ。
 「おや、九十万円、それは又大変な御損失です。通例の一家の財産ならば一時に消滅するほどでしょうに。」

 煽る言葉に夫人は勢いを得て喋々(ちょうちょう)《べちゃべちゃ》と遺言状の一条を語り出し、最後に及んで、「けれど、蛭峰も、あまりに頑固では有りませんか。それでも自分の言い分を通して、どうしても華子を毛脛安雄の妻にすると言い切りました。今時にこのような人が居るでしょうか。九十万円の損をして自分の言葉を守るというようなーーー」

 伯爵はここぞと思い、ひたすら感銘の色を示して、「いや言葉を守るということは人間の最上の美徳です。毛脛氏へ娘を遣(や)ると約束したから、九十万円の損失を忍んでもその約束を守るのは、いかにも蛭峰さんの本領でしょう。この本領がお有りなされるからこそ大検事という重い職責が尽くされるのです。全くフランスの司法権が、独立の美名を保ち良くその威信を繋いでいるのも、このような方があるためです。」

 蛭峰はこの褒め言葉に始めて顔を和らげ、「イヤ、自慢ではありませんが、生まれてかって言葉を食んだことのないのは私でしょう。」嘘ばかり言っている。
 伯爵;「オオそれではもう、明夜の晩餐会のお約束も私から念を押すのはかえって無礼に当たりますね。実は今日はそのために参ったのですけれど。」と巧みに利き所を見て釘を打った。

 蛭峰;「勿論です。」一度お約束を申した上は、何事を捨てておいても出席します。ですが矢張りエリシー街のお屋敷ですね。」
 夫人は傍らより、「アレ、貴方、田舎の別荘においてと言う事が、昨日の招待状にあったでは有りませんか。」
 言葉を重んじるという人が、場所を忘れていたと有っては少しきまりが悪い。実は忙しさにまぎれて良くは読まなかったのであろう。

 蛭峰;「エエ、そうそう、田舎の御別荘、それならばなお結構です。この頃はわずらわしい俗務ばかりで、一夕何処か静かなところで清い談話に耳を洗いたいと思っていました。確か御別荘はーーー」
 伯爵;「ハイ、別荘はオーチウルです。そうして時刻は六時から」
 オーチウルと聞いて、極めてかすかだけれど、何だか蛭峰の顔に雲がかかるかと思われるように見えた。

 蛭峰;「オーチウルのーーー」
 伯爵;「吹上小路です。」
 蛭峰;「エ、吹き上げ小路」
 果たして彼の眉間は寄った。
 伯爵;「ハイ、吹き上げ小路二十八番邸」
 蛭峰;「エ、エ、二十八番邸」
 と、驚かないように見せて驚き叫んだこの時の蛭峰の顔は実に何んともたとえようも無い。本当に腸(はらわた)に釘でも打たれたかと思われるばかりであった。しかし、もがいたとてもう遅い。

 夫人はその仔細を知らないから、「それ、先日私と重吉とが馬車で伯爵に救われた所ですよ。」
 蛭峰は額に脂汗を垂らしている。
 伯爵;「イヤ、お出でくださると分って安心しました。」
 蛭峰;「行きますよ。ハイ、行きますよ。」
 血を吐く思いとはこのことだろう。

 凡そ三十分ほど経た後に伯爵はここ出て、門に待たせてある馬車に乗ったが、腹のうちではおかしさに耐えられないと見え、ややもすればその顔が頬の辺から崩れそうに見えた。しかし、やがて気を取り直した様子で、「オオ、蛭峰が九十万円の損をしたとは、こっちの思いもしないところだ。まだ今日は時間が有るから、段倉にも少しばかり損をさせてやろうか。彼は先日来、スペインの公債を煽りたて六百万円ほど買い占めてあると言うから、二割方相場を下げてやれば百万円以上の損だ。どうせ彼の財産は元も子も無いまでにしてやるから、今急ぐにも及ばないけれど、少しずつ番狂わせを食わせるのも面白い。」と呟いた。

 そうしてポケットから財布を取り出しその中を調べて、「アア、電信技士に若しこれだけの金が有れば、二エークルや三エークルの田地を買い、その上郵便貯金をしても利子で生涯を安楽に暮らすことが出来るから、そうだ、どの様な技師でも免職をされるのを気にしない。必ず買収に応ずるだろう。」こう言って、更に馬車を何処へかは知らないけれど急がせた。

 多分その結果だろう。今日の暮れる前に相場市場に恐慌の波を立て、スペイン公債は叩き落すほど下落した。買い方の大将と言う段倉男爵は血眼になって又買い煽った。夜の七時頃に段倉の邸へ駆け付けたのは例の内閣官房長出部嶺である。彼は段倉夫人に会ってあわただしく「直ぐに貴方は男爵にスペイン公債を売り飛ばさせなければなりません。明朝になれば反古同様の値に下落します。夫人は色を失って、「そのような電報が。」

 出部嶺;「ハイ、生憎私より先、宰相の手に渡ったものですから、宰相が日頃の相場好きで直ぐに市場の手下の者へ洩らしました。私は今その読み粕(かす)を見て飛んで来ました。が、今度こそは幾たび買い煽っても追い付きません。今夜の八時までに売り飛ばさなければ、新聞が号外を出しますよ。」

 果たして八時までに段倉は買い集めていた凡そ八百万からの公債を、二割余りの損でただ一斉に売り飛ばした。間もなく新聞の号外が町々に呼びたてられた。「スペイン国王の逃亡、バーセロナ地方に大いなる一揆軍起こる。」と。これを読んだ第二流の相場氏はいずれも段倉の機敏に驚き、この様な事が新聞よりも先きに分り、買い方が咄嗟の間に売りに回って、僅かの損失で逃れるのだもの、どうせ我々はかなうはずが無い。」といずれもほとんど舌を巻いた。

 段倉自身は凡そ二百万円の損失に不機嫌ではあったけれど、大難を小難で逃れたと言って妻に感謝して、「我が運の神よ、福の神よ」と言ってひたすら誉めそやしたが、翌朝になってみると、この運の神が大なる不幸不福の神であった。新聞はすましたもので、「昨夜の号外はその筋の電信の誤訳から出たものだ。」と一行で取り消し、世に言うお茶を濁すために政府の事務の疎漏なのを攻撃している。

 スペイン公債の相場は元の値よりも更に二割方上に登った。きっと伯爵は手を打って笑っただろう。
 これだけが土曜日の晩餐会の前に有った事共の概略である。

第百五十終わり
次(百五十一)

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