巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 5.18

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

百五十五、「罪の深い或る品物」

 顔を見合わせた段倉夫人と蛭峰との気持ちはどの様だろう。まさか伯爵が自分らの旧悪を知ってわざと自分らをこの旧悪の部屋に連れて行くものとは思われないけれど、家中の部屋を全て、見違えるほどに作り直しながら、ただこの旧悪の部屋だけをことさらに昔のままに残してあるとは、偶然にしては余りに奇妙だ。夫人の方はついにささやいた。「余り妙では有りませんか。」実に妙だ。しかし蛭峰のほうは気は確かだ。「恐れる様子を示して疑いを招くのは愚の骨頂です。何の事が有りますものか。サア、行きましょう。」と言ってこの部屋を出た。

 部屋の外にはまだ伯爵が待っていて、恭(うやうや)しくこの二人をやり過ごして後に立った。伯爵の顔には笑みが浮んでいる。この笑みを二人はただ伯爵のお愛想としか思わなかったが、もしもお愛想のほかに更に意味がある事を看破する事が出来たなら、二人とも身震いするところだったかもしれない。

 やがて一同はかの部屋に集まったが、ただ段倉男爵だけはかの皮春侯爵を連れて喫煙室に入った。その仔細は彼は早やこの侯爵を驚くべき金満家と見て、特別の親交を結び資本を引き出そうという目算なのだ。その説くところは侯爵の領地だろうと思われるイタリアのフローレンス(フィレンツェ)からレグホーン港まで鉄道を引く計画である。

 「この鉄道を敷けば、株だけでも余ほど儲かります。」と言うのが彼の声で、「私は金を儲ける事はっ面倒で嫌いです。」と答えるのが侯爵の声だ。公爵は伯爵の指図を好く理解して中々上手く駆け引きをしている。言葉も行いも早や金ということの必要を感じないほどの大金持ちらしい。段倉は益々親交に勉めるばかりだ。

 こちらの部屋では客一同が、「成るほど、陰気な部屋ですねえ。」とか「部屋全体に何だか歴史的な趣味があります。」とか、上手く伯爵に相槌を打っているが、ただ蛭峰と段倉夫人だけは無言である。無言もそのはず、余りの事に声が出ないのだ。部屋の中にただボンヤリと一個の灯火がともっている。これが昔蛭峰とH.N夫人の姿を照らした蘭灯(らんとう)《ランプ》である。置かれた場所までも同じところだ。

 そうして壁には何の飾り気もないが、二つの絵額が掛かっている。これも昔のをそのままだ。伯爵はこの額を指差して、「この部屋の中でどの様な事が有ったか、それを見ていたのはこの額の中の人物だけでしょう。御覧なさいこの人物の顔が何だか、「隠しても俺が知っているぞ。」と言う様に見えるでは有りませんか。」と、特に段倉夫人の方に向かって言った。夫人は蛭峰と共に知らず知らず尻ごみして敷居の外に出た。ここに至っては、「恐れる様子を示して疑われるのは愚の骨頂です。」との約束もその功が消えたと見える。

 伯爵は身を転じて外に出た。「しかし皆様、部屋の中の陰気なのはこの裏階段には及びません。時々ここから忍び男でも出入りしたように見えるでは有りませんか。」
 忍び男と聞いて、今度は段倉夫人のみか蛭峰の顔まで変わった。出部嶺や砂田伯爵などは、何事も知らないけれど、ただ伯爵の言葉に釣り込まれ、「そうですね、どうしても忍び男の出入り道です。」と砂田伯爵が言えば、「そうすると今の部屋には何々夫人と言うのが閉じこもっていたように思われます。」と出部嶺は言った。

 伯爵は又段倉夫人に向かい、「貴方は何んとお思いです。もしも忍び男が夜の夜中に、罪の深い或る品物を小脇にはさみ、神に隠すことは出来なくても、人目にだけは見られまいとして、大事を取って一段づつこの階段を下ったと想像すれば何だかその様子が目に見えるようでは有りませんか。今もそのしのび男がこの辺にいるような気が致します。

 夫人は聞くのに耐えられなくて、重く蛭峰の腕に倒れ掛かった。顔色は土のようである。気絶ではないけれど、ほとんど気絶の際に達したのだ。第一に驚いたのが出部嶺である。「段倉夫人どうなされましたか。」夫人は必死の思いで身を引き起こし、「イイエ、何でも有りません。何でも有りません。」と元気を示した。

 蛭峰はたしなめるように伯爵に向かい、「貴方が余り気味の悪い想像話を為さるものですから。―――」伯爵は詫び入るように、「これは全く済みませんでした。イヤ、段倉夫人、何もこの階段をしのび男だけが上ったと言うのでは有りません。きっと医者だの看護師などが昇ったでしょう。生まれたばかりの可愛い罪の無い赤子もこの階段から抱き下ろされたでしょう。」赤子の一語は、僅かに残っていた一本の細い糸のような正気を段倉夫人から奪ってしまった。夫人はまったく気絶した。

第百五十五 終わり
次(百五十六)

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