巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

gankutu156

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 5.19

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

百五十六、「此の伯爵は大変者」

 段倉夫人は全く気絶した。何ゆえの気絶だろう。その仔細を知る者は蛭峰と夫人自身を除いては、巌窟島伯爵の外はいない。伯爵は直ぐに蛭峰夫人の傍により小声で、「先日差し上げた気付け薬をお持ちでは有りませんか。」と聞いた。気付け薬とは即ち毒薬である。極少し用いれば直ちに人を生かし、少しでも余計に用いれば、たちまち人を殺すとは伯爵がかってこの夫人に説明して与えたところである。

 女の身として宴会の場所にまでこのような危険な最劇薬を持って出るとは余り普通なことでは無いのだから、もしも伯爵が、「貴方は先日の毒薬をお持ちではありませんか。」と聞いたらなら、夫人は直ぐにいいえと拒むところだったろう。ただ「気付け薬」をと、しかも小声で聞いたから、「ハイ、持っています。」と答えた。しかし此の答えも少し決まり悪そうであった。若し小声でなく、人に聞こえる声だったなら、矢張り「いいえ」と答えたかもしれない。

 伯爵はこのような際どい忙しさの中でもこの蛭峰夫人がどれ程あの毒薬を珍重しているかを試験し、胸の中に頷(うなず)いて直ぐその子ビンを受け取り、その薬をコップの中にただ一滴落として、ビンは直ちに蛭峰夫人に返し、薬は気絶している段倉夫人の口に注いだ。

 その効き目は驚くべしだ。段倉夫人は直ぐに息を吹き返した。けれど、恐れはまだその心中にうろつき回っていると見え、「オオ、恐ろしい。恐ろしい。何だか夢のように。」と叫んだ。もしもこの半ば正気は正気、半ば夢のような状態で昔のことを口走りでもされたら大変だと驚き恐れたのは蛭峰である。彼はあわただしく夫人の顔をゆすぶって、「段倉夫人、夢では有りませんよ。気を確かに、貴方の夫段倉男爵もお出でですから。」と引き立てた。

 引き立てるのは実は予防である。夫人はなおも震える声で、「そうでしたか、私は又昔のーーーー」アア、昔のことを語られてたまるものか。蛭峰は必死である。すぐに此の夫人を何処か人の居ない所に連れて行かなければ、安心できない。とっさの思い付きに長けた彼は叫んだ。「新しい空気、空気、早く新鮮な空気を呼吸させて上げなければ。」この口実で夫人を庭に連れて出る積もりである。しかし、巌窟島伯爵のとっさの思い付きは更にその上を行った。

 「新鮮な空気ならば、蛭峰さんすぐに貴方がそのまま庭に抱いて行ってお上げなさい。この裏階段を下れば直ぐ庭ですから。」蛭峰はこの語に従う一方である。仕方なくよろめく夫人の方を助け、数々の因縁のあるあの裏階段を下って行った。

 これを奇観と言わなければ何を奇観と言うだろう。二十年間の不倫の男と不倫の女、今は全くの他人でありながら、手を引き引かれて又もその昔に下った階段を昔の通りに下るとは、たとえ天の配剤にしても、こうまで奇妙に上手く行くものでは無い。伯爵の心の中の満足はどの様だろう。

 直ぐに伯爵は続いてその階段を下った。他の客も又下った。中に砂田伯爵は冗談でこの騒ぎの熱を消すのが客たるものの義務でこれは社交術の奥の手とでも思ったらしく、非常に快活な声で、「イヨ―蛭峰君がそうして降りていくところは、今伯爵の話されていた忍び男の役に好くはまるぜ。出部嶺君、そうでは無いか。」と打ち笑った。此の声が蛭峰の耳にはどの様に響いたことやら。

 いよいよ一同が裏庭に出た。この時は早や蛭峰が夫人の耳に何事かささやいたと見え、夫人は確かに足を踏みしめて立っている。「本当に皆様をお騒がせしました。」と立派な挨拶をさえ述べた。これだけで最早伯爵が今夜の此の宴会の目的は充分に達したはずであるけれど、まだ一つすこし達しないところが残っている。

 若しこれだけで止めては仏作って魂を入れないようなものだ。伯爵はその魂を入れる積もりで密かに機会を待っていると、客一同は代わる代わる段倉夫人の前に行き、労わるような世辞などを述べ始めたが、その中に又砂田伯爵は、「イヤ夫人が神経をお動かしになったのは道理ですよ。いかにもこの家には非常に陰気なところが有って、この庭さえも、表庭の陽気な様子に引き換え、何となく陰鬱です。こう言っては主人には失礼か知れませんが、男子でさえも少し胃の重いときには自然と物凄い感じなどが起こります。」

 全く夫人に成り代わってその気絶を弁解するような言葉だから夫人も有り難たそうに、眼を上げて謝意を表した。蛭峰も心の中で、成るほど社交家というものは上手く何人にも跋(ばつ)を合わせて八方取り繕うものである。」と感心したけれど、、その感心は僅かな間であった。直ぐに伯爵がその尾について、ここぞと魂を入れに掛かった。

 「イヤ、全く砂田伯爵のお説の通りです。特に此の庭のこの辺は何処よりも私が神経を動かします。実を申しますと先日改築の為、今私が立っているこの木の下を掘りましたところ、恐ろしい犯罪の証拠の様なものが出て来ました。犯罪の証拠の様なものと言うような非常な言葉は何の場合でも人の注意を引かずには止まない。一同は我知らず伯爵の立っているところに目を注いだ。

 伯爵;この土の二尺(60cm)ほど下から一個の箱が現れ、どうでしょう、その中から生まれたばかりの小児だと思われる小さい骨が出たのです。」一同は身を震わせた。
 伯爵;「ここは墓地ではないのですから必然犯罪の痕跡(こんせき)です。たぶんは生き埋めにしたのかも知れません。」段倉夫人は再び気付け薬の厄介になりそうに見えた。全く蛭峰の手に再びよろめきかかった。

 けれど、客一同は伯爵の足元に目を注いで夫人の様子には気が付かない。その間蛭峰は夫人の手をしっかり握って注意を与え、かつ夫人に、ささやき告げた。「この伯爵は大変な者です。明日じっくりと貴方と話さなければ成りません。」

 夫人;「そうですか。何処で。」
 蛭峰;「司法省の官房へお出でください。官房ならば誰も怪しみませんから。極めて無難に話ができます。」
 司法省の官房を、不倫の男と女の密会の場所に使うとは、あまりといえば大胆である。官房も何も有ったものでは無い。

第百五十六 終わり
次(百五十七)

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