黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著　黒岩涙香　翻案　　トシ　口語訳

since 2011. 5.24

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史外史伝　巌窟王　　　　涙香小子訳

　夫の悪口雑言に妻も中々負けてはいない。「朝から晩まで金、金と、私は金の音と貴方の声とが何よりも嫌いです。」声が嫌いとは立ち去れということである。
　妻として夫に対し、これ程の侮辱が又と有るだろうか。もしも、かの偽電報を作為した人の目的が段倉を苦しめる事にあったとすれば、その目的は二重に達したといううものだ。

　彼に金銭の損失を掛けた上に、彼の夫婦中を破って一家の平和をも撹乱した。あたかも石一つで鳥二羽を殺したようなものである。段倉は真っ赤になり、「今までそなたから政治上の秘密を聞き、それで金儲けをした場合には必ず二割五分をそなたに配当してきたのだ。私が百万円儲ければ二十五万円の利益になった。この計算で今度の四百万円の損失につきそなたの財産から百万円は支出させなければならない。それが共同経営の原理だから」

　妻は冷ややかに笑って、「そのような金が有るものか」と呟くように言った。
　段倉；「無い、いよいよ無いとなったら出部嶺につぎ込んだのだ。彼に出させるがよい。」
　妻はなおも落ち着いている。

　段倉はほとんど焦る様に、「そなたは、知らぬは亭主ばかりなどと思っているのだろうが、そなたのしたことで、私が知らないことは一つも無い。夫婦になって後の事は勿論、その前のことでも、知ってはいても経営と家の信用が大事だから、知らない顔で黙っているのだ。それがためにもう四年以来夫婦というのは上辺だけで、別居同様にしているではないか、知らない亭主は馬鹿のように見えるとか言うけれど、知って知らない顔をしているからこそ、出部嶺だとて私に顔が上がらないではないか。今も私が入ってきたらコソコソ去ってしまったではないか。出部嶺のみか蛭峰とてもその通りだ。大検事という偉い職には居るけれど、私の前では誰の前よりも小さくなっている。」

　この言葉で見れば経営のために妻のふしだらを黙認しているのだ。この様な人間が上流社会に在るだろうかと怪しむのはそもそも野暮だ。この頃のフランスの上流社会は大抵このようであった。しかし、夫人は蛭峰の名が出たのにほとんど顔色を失って落ち着いた様子は全く消え、「蛭峰さんが何でスか。」と叫んだ。

　叫ばずにはいられないだろう。今夜彼と二人で旧悪の場所に立ち、気絶するまでに驚き恐れて、今もまだその気持ちが静まらず、明日司法省の官房で彼に会うという約束をただ一つの頼みの綱としているのだから。

　今度は段倉の方が冷ややかに笑って、「何ですかなどと私に問うより、そなたの前の夫糊菅男爵が何で死んだかを思い出して見るが好い。可愛そうに男爵は九ヵ月の旅から帰ってみると最愛の妻が妊娠して六ヵ月になって居た。そうしてその相手が蛭峰と分り、悔しさに急に病気が重くなって血を吐いて死んだじゃないか。」
　夫人は返す言葉も無い。ただ「あんまりな疑いです。」と再び叫び尻餅をついて長椅子の上に沈んだ。

　夫は勿論介抱もしない。ただ宣告するように、
　「あえて済んだ事を咎めるでは無い。兎も角、四百万円の損失は、出来るだけそなたの財産から取り立て、なお不足の分はこの後の配当で差し引くから、そう思って居るが好い。ただし、それだけではまだ足りないから、娘夕蝉をも、誰か大財産を持っている人の息子に縁付ける。コレも横合いから口を入れてもらっては困る。」と二ヶ条を言い聞かせて立ち去った。

　さてはただ旧悪を鳴らすのが目的ではなかった。旧悪を責めてグーの音も出ないようにへこませておいて、そうして二ヶ条を無理矢理に押し付ける為であった。中々外交的な駆け引きが上手い。日頃の黙認も無理は無かった。

　この翌日である。妻は約束の時間までに蛭峰を司法省に訪ねる積もりで、ただひたすら夫の外出を待っていると、夫の方は二ヶ条の中の一ヶ条、娘夕蝉の縁談について地歩を勧める運動のため家を出た。そうして行く先は巌窟島伯爵の邸であった。

第百六十　終わり
次（百六十一）

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