gankutu166
巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2011. 5.30
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
百六十六、「警視総監から」
蛭峰が巌窟島伯爵の身分を疑う事になったとは、伯爵にとって容易ならない次第ではないだろうか。きっと彼蛭峰は熱心に伯爵の正体を調べるに違いない。
けれど、伯爵も、数年の苦労をもって、工夫に工夫を重ね、準備に準備を尽くして、ただの一歩でも踏み損じのない様に大事を取ってかかっていることだから、蛭峰の一回や二回の調査でもろくも敗北するはずは無いだろう。
既に蛭峰が段倉夫人と密会したその日の夕刻である。伯爵は家令春田路を呼び、「まだ彼は帰ってこないか。」と聞いた。彼とは誰の事か知らないけれど、春田路は理解している。「ハイ、ただ今帰りました。今朝から司法省の門前を厳重に見張っていましたところ、大検事は朝の九時半に出勤しました。」
伯爵;「すると間もなく濃いベールに顔を隠した婦人がーーー」春田路がこの推量の当たったのに驚いた様子で、「ハイ、その通りです。十時頃に司法省の門を入り、大検事の官房を訪ねて行きました。」
伯爵;「そうして面会は」
春田路;「凡そ一時間半ほど続いたと申します。」
伯爵;「フム、一時間半ほどか。中々話が長かったと見えるな。それから、」
春田路;「それから婦人は司法省を出てメリン街まで歩み、そこから辻馬車に乗り、蛭峰氏の私邸に行き」
伯爵;「フム、夫と密会しておいて、その妻に疑われないために帰りに妻の許(もと)を訪問したのか。余ほどその様な事には慣れているな。」
春田路;「ここでも一時間ほど経って、今度は徒歩のままで段倉家に行ったと言います。」
伯爵;「行ったのではない、帰ったのだ。それで、大検事の方は。」
春田路;「午後の二時頃に退出して警視庁に立ち寄り、一時間ほど経って私邸に帰りました。」
伯爵は別に驚く様子は無い。ただ呟いた、「分った、分った、警視庁を頼りにするならば、まだ扱い易い。」
こう言って春田路を退けた後で、又一人考えていたが、この所に丁度野西武之助が訪ねて来た。彼は母と共に伯爵のあの土曜日の晩餐会を避けて海浜に保養に行ったのだ。今は晩餐会が終わったから帰って来たのだ。
彼の第一の言葉は、「伯爵、四日間の間海浜で母と二人で貴方の噂ばかりをしていました。」というのであった。武之助の母のことは伯爵が心を動かさずには聞くことが出来ないところである。特に自分がその人の口に噂されたと聞いては何やら顔色まで変わるように見えた。けれど、勉めて何気なく装い、「そうでしたか」と軽く言って、更に二言三言海浜の景色などを聞いたが、武之助はとり急ぐ様子で、
「伯爵、私は家にも寄らずに直ぐにこちらに参ったのです。実は母が一夕パーティーを開いて貴方をお招き申したいと言い、その日取りまでも私と二人で取り決めましたから、それを貴方にお知らせ申し上げる為に」
伯爵には少し当惑の色が見えた。
武之助;「今度こそはお断りにはならないでしょう。もしも差し支えがあるとでも仰れば、確かに貴方は私の母をお避けなさるのです。」
伯爵;「何で貴方の母御を避けますものか。世間一般から貴婦人の鑑(かがみ)とも言うほどに敬われている方ですもの、しかしーー」
武之助;「ソレそのしかしが余計では有りませんか。」
伯爵;「しかし、どの様な方々をお招きです。」
武之助;「パリー中の名高い人を五、六十人招きます。段倉男爵や蛭峰氏を初めとして」
蛭峰の名は伯爵の躊躇をかき消した。彼に会う機会とさえあれば決して取り逃がしてはならない。
伯爵;「参りましょう。日はいつです。」
武之助;「貴方の土曜日の晩餐会に因(ちな)み、矢張り土曜日と決めました。来る第三の土曜日です。」伯爵は手帳を出して直ぐにその日を書き留めた。」
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伯爵が蛭峰を狙うように、蛭峰も勿論油断なく伯爵を狙っている。この翌日である。蛭峰の手許に警視総監から以下の報告が届いた。
「巌窟島伯爵と称する人のパリーに来る前の事を知っている人は絶えて有りません。ただ目下この国に来遊中と聞く英国の柳田卿は数年前より彼を知っていると察せられます。又何事かにおいて彼と競争し、彼とは互いに敵意を抱いているようです。ほかに一人、シシリー島の有名な老僧暮内法師は時々彼の邸に出入りしていると聞きます。この人も目下多分パリーに滞在している模様。この両人の宿所は取調べ中です。」
これに引き続き、今度は両人の宿所や日頃の動向などを詳しく記した第二の報告書が届いた。すると間もなく蛭峰の邸から一人の特務巡査が出てサルピス街にある暮内法師の寓居を目指して行った。
第百六十六 終わり
次(百六十七)
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