巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

gankutu176

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 6.9

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

百七十六、『蛭峰家』(三)

 迎いに応じて来た医師は、前からこの蛭峰家へ十年以上、お出入りする老名医で有国博士と言って、その道には良く知られた中々名高い人である。この人は直ぐに華子と共に米良田伯爵夫人の寝室に行き、診察したが、病の兆候に納得できない所がある様子で、しきりに老夫人に食物のことなどを聞いていた。しかし、老夫人は先刻華子に話した毒薬の疑いなどは少しもこの老医師には洩らさなかった。

 診察を終えて老医師はなおも不審の眉をひそめてこの部屋を出て、華子に向かって、「少し貴方のお父さんにお目にかかりたいと思います。」と非常に重々しい口調で言った。何か容易ならない疑いのあることはその語調で察せられる。華子はすぐその意にしたがい父蛭峰の部屋に駆けて行って、そうしてドアを開いてみると父は若い一紳士と慇懃に何事か相談していて、直ぐに華子を招き寄せ、「この方が毛脛安雄君である。毛脛さん、これが娘華子です。」と引き合わせた。

 華子はハッと思うと共に顔を真紅に染めた。これが父の定めた我が夫である。夫たるべきひとである。この人がローマをを立って帰国の途に上ったとは既に昨夜聞いたけれど、早や帰着してしかもこの部屋に居ようとは思いもしないところである。

 日頃行儀作法には正しい華子だけれど、今は一語をも発することが出来ない。全く身の破滅する時が来たように感じた。そうしてただ僅かに父の耳に、「お父さん、有り国医師が貴方を待ってい余す。」と囁いたまま、行儀にも作法にも構わず、逃げるように駆け出した後に、蛭峰は決まり悪そうに、

 「アノ通りまだホンの子供ですから致し方有りません。どうぞお気を長く充分面倒を見てやってください。」と言った。しかし、安雄は華子が非常に恥らった様子を決して憎くは思わなかった。実際誰でも華子を見て、しかもその顔が真紅に染められるのを見て、憎くなど思うことができるものか。

 蛭峰はやがて安雄に少しの間と断って座を立ち、そうして有り国医師の待っている部屋に来た。医師は口数を利かない。ただ簡単に、「もしやこの家にブルシンを蓄えては有りませんか。」と聞いた。ブルシンとはストリキニーネと並び称せられるほどの劇薬でかって巌窟島伯爵がこの家の令夫人にその作用などを説明したこともある。

 蛭峰はただその名前を聞くだけですら驚き「何でそのような毒薬が素人の家に蓄えてあるでしょう。」と断言した。老医師はなおも納得が行かない様子で、「もしや私から野々内弾正に与えて有る薬がこの家に紛れ込む様な事は有りませんか。」蛭峰は怪しむように、「父弾正の服薬にはブルシンを用いているのですか。」

 老医師は自分の職業上の事を、素人に問われるのは好まない。「或いは用いているかもしれません。或いは用いていないかもしれません。それよりも私の今の問いにお返事を願います。」大検事でも医者の前では医者の権威に従わなければならない。「ハイ、父弾正の居る隠居所とこの家とはご存知の通り廊下続きではありますけれど、父の服薬がこちらに紛れ込むというよな恐れは少しも有りません。ですが先生、何でその様な事をお聞きに成りますか。」

 老医師は、「未だこの問いに返事をすべき時では有りません。」と言い切り、そのまま更に不思議そうに考えながら立ち去った。
それはさて置き、華子は安雄の前から逃げ出すや否や、老医師のいる部屋に来ずに、直ぐに祖母米良田伯爵老夫人の寝室に駆け入り、「どうしましょう。お祖母さん。」と言ってその枕辺に泣き伏すように身を投げ出した。老夫人は先ほどに比べると余ほど心も落ち着いていて、華子のこの様子に打ち驚き、

 「この子はまあ何をそのようにあわただしく。」
 華子;「イイエ、お祖母さん、私は少しも知りませんでしたが、毛脛安雄さんが、早やローマから帰ったと見え、今お父さんの部屋に来ています。」
 老夫人はかえって安心の様子である。「それでは安心だ。私もどうか安雄さんに会い、出来ることなら今日のうちにも婚礼の約束を取り決め、その約定書へ、そなたと安雄さんとに調印させる所を見たい。」

 が華子は助け舟に水が洩れ入るような思いである。「婚姻と言っても、今その様な事が出来ますものか。まだ、お祖父さんの葬式さえ済ませていないでは有りませんか。どうかお祖父さんの葬式の済むまで婚礼のことは言わないように、エ、お祖母さん、貴方のお力で伸ばすようにしてください。」

 一週間でも一日でも、伸ばしたいのである。伸ばしたとしても元より逃れる道は無いけれど、伸ばすうちにはどうか成るだろうと言うような気のするのが世間知らずの若い者の常である。老夫人はとんでもないという面持ちで、「イイエお祖父さんもこの婚礼には大賛成で、早く取り決めたいとばかり言ってお出でだったから、儀式は兎も角、調印だけは葬式の前に済まさなければなりません。調印さえすれば夫婦も同然で、裁判を経なければ取り消すということができないから、何が何でも、調印は今日のうちに、それが出来なければ、明日は必ず。―――」

 華子は後の言葉を聞く力が無い。今日か明日より延びないことにまで決まったとは、何んと言う情けないことだろうと、ただ絶望に前後も忘れ、又ここを走り出た。そうして行く先は何処だろう。何時も一人で、心の憂さを晴らしに行く裏庭の深い木陰である。木の葉よりほかに聞く人の無い所で、泣きたいだけ泣きでもすれば、幾らか心も静まるのだ。こう思って直ぐに裏庭に迷い入ったが、ここにはただ塀一重隔てた先に、これも同じ思いの森江大尉がたたずんでいる。

 塀の隙間から華子の姿を見るより早く、「もし、華子さん、華子さん」
 華子;「オオ、森江さんですか。ようここにいてくださった。」と駆け寄る様子の嬉しそうなこと、この様な二人を引き分けるとは、本当に罪なことである。

第百七十六 終わり
次(百七十七)

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