巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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gankutu186

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 6.19

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

百八十六回、『蛭峰家』(七)

 話は追々枝葉が多くなって来た。三週間後と決まった武之助と猛(たけし)との決闘はどうなるだろう。段倉の娘夕蝉と小候爵皮春永太郎との仲はどの様に成って行くだろう。また全身不随の野々内弾正が請合った華子と安雄の結婚の調印は果たして妨げることが出来るだろうか。すべてそれやこれやの別々な事柄が知らず知らずに巌窟島伯爵の大復讐へ流れ込んで行きつつあるのだ。その様子はあたかも東西南北さまざまな方角に流れて、何の縁も無さそうな別々の川が、その実、自然に一つの大海に流れ込んで行く様なものである。これは天地の間に存する自然の道理、彼は人情の上に現れる大なる天意というべきである。ここにはまず野々内弾正の件に立ち戻って、話の歩を進めよう。
  *    *     *     *     *      *      *     *
 口さえも利けない末路の英雄野々内弾正にどの様な奇策がある。弾正のそばを離れない華子さえも怪しみそして危ぶんでいたが、この翌日はこの蛭峰家から二つの葬式が一緒に出た。一つはマルセイユから着いた米良田老男爵の死骸で、今一つはこの家で有国医師に毒殺と疑われた米良田老夫人の死骸である。

 何しろ悲しむべき事柄ではあるけれど、老いたる夫婦がおよそ時を同じくして死し、同じ日に同じ家から棺を出して同じところに葬られるとは世に言う偕老洞穴《夫婦が共に仲良く年老い、死後同じ墓に葬られること》のことわざに叶うものとして諦(あきら)めるほかは無いと、悔やみに来たうちの或る人は言った。

 何にしても主人蛭峰にとっては非常な取り込みと言うもので、これのために彼の大事な調査は日一日と延びている。「エエ、このような事さえなければもうとっくに巌窟島伯爵と言うあの怪物の本性は分かっているのに。」と彼蛭峰は墓地に行ってまでつぶやいた。その心中の忙しさは察すべきである。しかし、彼は忙しさに驚くような弱い男ではない。

 忙しさに連れますます心が激しくなる方で、「ナニ、この葬式が済めば、直ぐに華子の調印を済ませ、また即座に彼怪物の取調べに着手するのだ。」と心に誓い、葬式の場所で早や会葬人の中から毛脛安雄を見つけ出して、今夜是非ともわが邸に来て調印を済ましてくれるようにと頼んだ。

 安雄もこれには驚いた。いくら何でも二つ葬式を出したその家で、その夜に結婚の調印とは余りに心持のよくないことだから、せめて明日にと、どうしても辞退し、その場はこれで別れた。さて翌日になるといよいよその積もりで蛭峰の方では公証人をも呼び、すべて調印の用意万端を整えて待っている。

 そのところに安雄が来た。これが安雄と華子との二度目の顔合わせある。華子はあえて安雄を憎いと思うわけではない。家柄と言い、男振りと言い、かつは心栄えまで誰の夫としても恥ずかしくない人ではあるけれど、外にこの人に勝る大尉森江真太郎が有って心が既にその人のものとなっているのだ。

 どうして祖父弾正がこの調印を妨げてくれるだろう。手段があるなら、今その手段を施さないとと、ほとんど気が気でなく、調印のテーブルに向かっても何度か隠居所の方を振り向き、ただ胸をのみ騒がせているうち、いよいよ公証人が婚姻約定書を読み聞かせようとする間際になって、隠居所の方から、長年弾正に付いている老僕忠助が急いで来た。

 華子は有り難いと思う心を隠してこれに向かい、「忠助、お祖父様が急にお悪くでも成ったのではないのかい。」と聞いた。
 忠助;「ハイ、先刻から何だかご様子が違っているように見えたものですから、色々と伺いましたら、婿となる方を一度も隠居所に連れて来ずに、調印するとは不服だとのご立腹のように私には思われますので。」

 華子は父蛭峰の顔を見た。これは顔に父の返事が現れるだろうと思っての事なのだ。蛭峰は眉をひそめ「何だ余計な」と呟き、更に声を発して「何も隠して調印するわけではなし。ただこのようなことは寸善尺魔《世の中には良いことが少なく悪いことが多いこと》とさえ言うのだから、急いでいるのだ。調印が済めば直ぐに毛脛安雄氏を隠居所にご案内してお引き合わせ致しますと、そう申してくれ。」

 華子は大変と、「でもお父さんーーー、」と叫んだ。けれど後に続く言葉が出ない。もしこの時に天から邪魔でも降って来なくては弾正のどの様な奇策も施す方法が無く、調印は無事に実施されそうに見えた。
 幸いなるかな、邪魔は天からは降って来ないが、毛脛安雄の口から出た。

 「イヤ、これは全く私の失念でした。大事なお孫さんと縁組するのに、一度も祖父様にお目にかからないとは、申し訳の無い無作法です。兎に角ご隠居所に行き、一応お目にかかって来て、ソレから調印と致しましょう。公証人、どうか手間は取らせませんから、少しお待ちください。」と言って立った。

 これは必ずしも毛脛安雄でなくても、言わなければならないことである。人の孫娘を妻とするのに、その祖父に顔さえ見せずに調印するとは、誰でも気の済まない事柄である。一人蛭峰だけは、虫が知らせると言うものか、何だか今この安雄を弾正に会わせるのは良くないように感じ、既にひそめている眉と眉との間を一層狭くしたけれど、引き止める口実は無い。

 「では、私がご案内いたしましょう。」と言って渋々立った。自分が連れて行きさえすれば、たとえ、万一に何か面倒なことが起こりそうに見えても、直ぐに引き分けて、連れてくることが出来るのだ。華子も遅れずに立ち上がった。

 真にお祖父さんが妨げてくれることが出来るかもしれないと、まだ危ぶむ気持ちは胸に満ち満ちているけれど、兎に角一度は虎口の難を逃れたのだ。イヤ、難を幾時の間か後に送ることが出来たのだ。これに蛭峰の妻を合わせ四人打ち連れて隠居所を目指して行った。

 そもそもこの隠居所において大いなる活劇が演じられるとは誰も知る者は居ない。

第百八十六 終わり
次(百八十七)

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