巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 1. 3

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

十九、天運か、天道か

 「横領者ナポレオンの上陸」唯この一語、真に晴天の霹靂である。国王の顔は烈火の如しである。今までこれほどの怒気を表したことは無い。「何処に、何処にダンドル男爵、横領者は何処に上陸した。イタリアにか。」

 長官;「ジュアンの湾に沿いアンチブの付近ににある一小港に」 国王;「何と申す。イタリアではなく当国のアンチブ付近に、オオ、わずかにこのパリーを去ること二百五十里(1000km)、三月一日に上陸したのを、電信線も出来ている今の世に、警視長官たる者が三月四日という今日まで知らずに居たのか。」詰問の言葉を矢を継ぐように発したが、やがて又「まさか事実ではあるまい。」何かの間違いだろう。」

 長官;「悲しいかな、間違いはありません。事実です。」
 国王は我を忘れて立ち上がり、「横領者がこの国に、アア、汝らは彼の一挙一動にに警戒すべき職務であるのに、彼と内通しているのではないのか。」
 内大臣は聞きかねて「陛下の忠良なる官吏のうち、何で横領者に内通する者がありましょう。今日、上下誰一人横領者がこの国に帰り得ようと思う者は無く、警視長官とても、そうまで見破ることが出来なかったのです。」

 この時、黙って隅の方に控えていたあの蛭峰は我知らず、「しかしーーー」と一言発し初めて気が付いたように、「イヤ、熱心の余り、思わず口を開きました、どうかそそっかしい行いを、お許しを願います。」
 国王は慌てて昼峰に向かい、「イヤそそっかしい行いではない。朕に第一の情報を伝えたのは汝である。何か善後についての策が有れば遠慮なく申せ。」

 溺れる者は藁(わら)にさえもつかまるように、一国の王たる人がこの小官吏を頼りにしている。
 蛭峰は恐る恐る「当国南部の人心は総て横領者を憎んでいますので、彼が、もし南部に回れば、ランクドウ及びプロバン両州の民を決起させて、彼を追い返すことは出来るでしょう。」
 警視長官;「所が彼はプロバンの方には出ず、直ちに山道を通って進みつつあるのです。」

 王は又驚いた。「なんだと、彼は上陸しただけでなく、早や進みつつあるのか。何処を指して、コレ長官このパリー-を目指して進むのか。」
 長官は一語も発し得ない。発し得ないのは「その通りですと断言するに同じことだ。

 王は又蛭峰に向かい「山道ならばトピネー付近の人心はどうであろう。」
 蛭;「山道付近は遺憾ながら王への忠誠が未だ広まっていません、横領者に組するものが多いのです。」
 王は実に恨みに我慢が出来ない。「オオ、彼は間違った報告をする警視長官が無いだけに、良く調べが行き届いていると見える。」
 何たる苦しい言葉だろう。国王はまさに恥じ入る警視長官の顔を見つめて、して、彼はどれほどの従者を連れている。」
 
 長官;「それまでは未だ分かりません。」
 王:「分からぬ。オオ、汝の目には彼が兵力を持って進んでいるか、兵力無しに進んでいるのか、その様なことは必要と見えないのだろう。」
 長官;「イヤ、陛下、全くその辺のことは未だ知ることが出来ないのです。報告はとりあえず彼の上陸と進路だけを知らせて来たのにとどまりますから。」
 王;「その報告はどの様にして届いた。」
 長官は赤面の上に赤面して、「電信に依りまして」

 王は長官につかみ掛かるかと疑われる様子で、二足ほど進んだが、広げた手を胸に当て踏み止まり、怒りか、恨みか、天にも訴えるような声で、「嗚呼、お前たちは知らないのか。七国連合の兵をもって彼ナポレオンを破り、彼を放逐して、朕を流ざんより呼び返し、祖先の踏みたまえたる王位に登らせてくれたのは真に天の助けのいたすところである。

 朕は流ざん二十五年の間、日には祖先の王位回復を望み、夜には祖先の国家を夢見、ただひたすらに、民心の向かうところを考え、自ら国家千年の計を考えて、良く天の助けに答えようと決意したのに、位にあることわずか十ヵ月、広大な領土の未だ十分の一も整わないうちに、再び国家が朕の手から奪われようとする目に会うとは、何のためであるか。何のためであるか。」

 隠す涙は落ちないが千秋尽きぬ深い恨みは言外に溢れている。
 長官は顔も上げられない。ただ聞こえないほどの声で、「真に天運――痛恨に堪えません。」

 王は聞きとがめるように、「天運か、天道か、口に忠良の語を吐いて心に忠良の誠無き官吏に奉仕され泰平にならぬ泰平を信じたのは朕(ちん)が愚かだった。又不運であるか。彼ら官吏は何者ぞ、朕に頼って得、朕に頼って食らい、朕に頼って身を立つる者ではないか。

 朕ありて、彼らあり、朕無くば彼等無し、朕が位を失う日は彼等が路頭に迷う日ではないのか。しかも彼等が王国王家を思うこと、親密ではない。ことをここまで進展させるとは真にダンドル、汝の言う通り天運である。天運の尽きるところである。」

 長官はもとより内大臣さえ顔を上げられない。一人心中に喜ぶのは蛭峰だけである。彼はナポレオンがいかにパリーを指して進もうとも、まだこの王国、王政を転覆する力が有るとは思わない。今に自分の時代が来る。国王の傍に座し、大いなる名利、栄達を握る時が来ると信じているのだ。

 国王はなお恨みが尽きない。「国家のために養った官吏が国家を思わず、泰平の一具に備えた電信が、かえって朕に、朕の国家の没落を伝えて来る道具となった。朕は物笑いとなって、このチウレリー宮を追われるより、むしろ朕の兄ルイ十六世が上った斬首台に上されよう。一国の王としては、命を立たれるのはあえて悲しみ恐れるに足りないが、笑いを残すに至ってはしのぶにもしのべない。汝らは死よりも名の惜しむべきを知っているはずである。」

 流石に国王の言葉たるに恥じない。長官は嘆願するようにただ、「陛下、陛下」と呟(つぶや)いた。王はこの語を耳にいれず、無言に立っている蛭峰を顧みて、やがてその方に身を向けた。

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