gankutu192
巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2011. 6.25
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
百九十二回、『蛭峰家』(十二)
確かに有国先生は華子を疑っている。なるほどその疑いに一応の道理がないわけではない。米良田伯爵夫妻が死んだのも華子の利益となった。野々内弾正がもし毒殺されることになればそれも同じく華子の利益となる。そうすれば華子は野々内弾正が新たに遺言状を作って自分を相続人と定めた事について、今が弾正を殺すべきときだと思ったのだろうか。
今殺さなければ再び弾正が遺言状を書き改めるかもしれない。再び書き改められては取り返しが付かないから、そのようなことがないうちにと、深く考えて用意した毒薬が誤って忠助を殺すこととなったのだろうか。然り、有国先生は確かにそう思っている。
けれど、父、蛭峰の身としては何でこのような恐ろしい疑いが信じられよう。たとえこの上に倍も二倍も強い証拠が出たとしても、まさかわが娘にそのような鬼心があろうとは信じない。彼は叫んだ。「有国さん、犯罪によって利益を得る者を疑えと言う諺ほど明白な語はありませんが、又この語ほど多く無実の人を罪に陥れた言葉もないのです。真正の裁判は決してこのような簡単な言葉で決せられるものでは有りません。」
有国先生は理が非でも自分の言葉を押し通そうと言う人ではない。「そうです。全くそうです。ですから私はその言葉を根拠としてだれそれがその犯人だと指すのではありません。ただこの家に犯罪のあることを貴方に告げるのです。
その犯人が誰であるかそれを見出すのは貴方の職務、あえて私のくちばしを入れるところではありませんが、兎に角、この家で一週間と経たないうちに同じブルシンで毒殺された人が二人まであることは認めなければなりません。これを認めれば調査せずに捨てておくことはなおさら出来ないでしょう。それだから私は貴方に調査なさいと言うのです。
貴方がもしも一家の名誉を大切にするために、これを調査しないで捨て置くならば、私は医師たる自分の職務として更に相当の手続きを踏み、相当の役所に訴えます。ただこれだけを申すのです。」
ただこれだけというその、「これだけ」が恐ろしい。
いかに蛭峰が裁判所に大勢力のある身分と言ってもこれを妨げるわけには行かない。彼は情けないと言う口調で、「有国さん、全く蛭峰家の滅びるときが来たのです。することなすこと、ことごとく間違った道へばかり流れ込んで、―――」
有国;「イヤ、それはお察し申しますが、貴方は大検事として我が家に起こったこの毒殺事件を詮調査するのですか。しないのですか。」
蛭峰;「調査します。ハイ調査はしますがーーーー。」
有国;「調査するのならそれでよろしい。私はこの上に言うことはありません。」と言って立ち去ったのは、実に我職掌の上の義務は一歩も曲げないと言う厳重な方針を守ったもので、さすがに信用の厚い医師だけのことは有る。
勿論、忠助はそのまま死んでしまった。その後に蛭峰はつくづくとその身の不運を感じた。一方に巌窟島伯爵の本性を見破るために、必勝の手段をとって、古い書面を取り調べていれば、落ち着いてその取調べを続けられないようなことばかり起こり、又一方には一身一家の計画がことごとく外れて、今は自分の大検事という職務をもって我家中から罪人を探し出さなければならないという、辛い調査まで降って沸いた。
なおこればかりではない。忠助の変死には下女下男一同に至るまで、恐れおののき、一人がこの家には死神が祟(たた)っていると言い出せば、一同がなるほどそれに違いないと言い、その夜台所に寄り集まって上で、議論を固め、直ぐに一同で暇をとることとなった。これは小事のようで大事である。雇い人一同に立ち去られて、主人たるものがどうして家を治めて行くことが出来るものか。
蛭峰は妻と共に力を合わせ、給金を増すからどうか留まってくれと言って、一人一人に説得したけれど、甲斐がなかった。翌朝は水汲む者さえ無いほどの始末となった。広い蛭峰家がほとんど火の消えたあとのようだ。
しかし蛭峰家のことは之だけで止めておいて、話は又も小公爵皮春永太郎のことに移る。
* * * * * * *
さても永太郎は段倉の家で巌窟島伯爵の自分に対するしぐさを見て、どうも伯爵が自分の本当の父ではないだろうかとの疑いを起こしたため、静かに立ち去ってその夜を朝までも考え明かしたが、どうもそうでなければ伯爵の今までの振る舞いが理解できない。
第一伯爵が日々私に与えて使わせる金だけでも、莫大なものである。父でなく子でなければ何でこのような無益なことをするものか。たぶん、私のことを巌窟島家の相続人として恥ずかしくない性質で有るか無いかとさまざまな誘惑を加えて、試験しているに違いない。
我が父と言う皮春大公爵の使う費用といってもその実、伯爵から出ているのは勿論のことで、察するに伯爵は、私を自分の手近くに住まわせておくのに、しかるべき口実が無いから、父でない父をこしらえて、そうして世間体を作って置くのだろう。
そのうちには必ず機会を見て私に真実のことを打ち明け、親であったか子であったかと名乗り合うことになるのに違いないと、考えるに従って、ますます確からしく思われるから、ついにその日の暮れころにおよび、伯爵の下に行き、それとはなしに問うて見た。
「そもそも伯爵、この私が妻を娶って、一家を構える場合には、さしあたり私の父はどれほどの財産を分けてくれるでしょうか。」と、遠まわしだけれどなかなか適切な問い方であった。伯爵は驚かない。
「貴方には母方の財産、即ち小品侯爵令嬢折葉姫の遺産が二百万円あって、これはある人が保管しているはずですから、父上の承諾如何にかかわらず之だけは貴方が家を持つと同時に貴方のものになるでしょう。更に父上が貴方へいくら分け与えるか、それは先日ロシアに立った父上が帰って来た上で無ければ分かりません。
けれど、兎に角、貴方が令夫人と共に侯爵と言う身分を支えていくに足りるだけの資本―――そうですね、三朱の利息として年に十五万円利息を生むだけの元金即ち五百万円はすぐに分け与えるように、私が忠告しましょう。果たして父上が五十万円の収入がある方ならそれくらいのことはイヤとは言わないでしょう。」と答えた。
永太郎はますます自分の信じているところを深くしたが、伯爵は永太郎の立ち去る間際となり、更についでのように、「しかし、小侯爵、貴方が段倉男爵の娘、夕蝉嬢を娶ろうと言うなら私はそれに関係することは出来ませんよ。私の位置は義理にも彼の令嬢と野西武之助との縁談を賛成しなければならないことになっていますから。」と言い足した。
永太郎は心の底でうなずいた。これは伯爵が暗に夕蝉嬢を早く貰えとの謎である。自分は義理のため口を添えることは出来ないから、一人で事を運ぶようにせよ。そうすれば夫婦の一家の立つように計らってやると請合ってくれたのも同じ事だ。
果たして伯爵の心がその通りだかどうかは分からないけれど、永太郎は全くこうだと信じ、大胆にもこの翌日、直ぐに段倉の家に縁談の申し込みに自分で出かけた。段倉のほうもほとんどその申し込みを待っているほどの状態だった。
第百九十二 終わり
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