巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

二百二回、『総身の剛(こわ)ばった様に』

 野西子爵は居並ぶ一同の議員を見回し、誰の顔にも侵しがたい厳かな色が現れているのに驚いた。何事の荘重な議事だろう。何か外交の方面にでも容易ならない事件が起こったのだろうかと、ただ単に不思議がったけれど、自分の身に売国奴の名を受けて、今裁判せられるためだとは思いも寄らない。

 売国奴、売国奴、ただ簡単なこの一語が、この場合に於いてなぜこのように人々を憤(いきどお)らせるのであろうか。これは外でもない、ヤミナの闘いは全フランスの人と言いたいが、実は全ヨーロッパ、全キリスト教国の人々が、ことごとく同情を表した所で、特にこのフランスからは多くの有志が援兵に馳せ参じた。野西子爵もその一人であった。そうしてその城が陥落したときには、ほとんどヨーロッパ中に泣かない人はいなかったほどである。

 その上にその城が滅びたと共に、フランスの援兵はほとんど残らず戦死してしまった。それだからその城を敵に売ったと言うことは、フランス人がフランスの国民を売ったと言うのと同じほど重く聞こえる。他の国人の城を売ったのではない。全キリスト教国の同情を売ったのだ。義勇なる同胞兵士の生命を売ったのだ。これが憎まれず、怒られずに居られるはずは無い。

 しかし、気の毒なのはこの朝、野西子爵が新聞を見ずに議場に来たことである。新聞は一日一日の出来事を報じるもので、何時自分にどの様に関係のあることが出るかもしれないから、世に立つ人は一日の事務の前に必ず新聞を読まなければならない。特に貴族社会の人々は文学の趣味といえども深いので、唯その趣味のためにも朝々新聞を読まずには耐えられないほどであるのに、そのことについては野西次郎はにわか貴族の悲しさである。

 何事も他の貴族と変わらないように飾り立ててはいるけれど、幼い頃からの文学の素養が無いために、新聞を読まないのをそれほど苦痛とは思わない。この朝も認めるべき二、三の手紙が有ったため、その方を先にして、新聞を後にして、そのうちに貴族院に出席する時間となったため、何の心配も無く出て来たのである。

 けれど、議場の雰囲気が余りに何時もと違っているから、何事なのかを他の議員に聞いてみようかと思った。しかし、聞くのも少しきまりが悪い。そのうちに誰か発言でもすれば直ぐに納得が行くだろうと思い直して待っていた。

 いつもとは違って、議長も何だか重々しく構えたまま口を開かない。又議員一同も、誰かこの重大な口切をするだろうと、互いに人の発言を待って、言わば睨みあいの姿である。何しろ人一人の存亡に関するばかりか、貴族総体の栄誉か恥辱となる事件だから、発言者の責任が中々重い。この分では誰も彼も言わずに済ましてしまうことになってしまわないかと、ほとんど心配されるほどであったが、ついに一人、日頃から野西子爵と何事をも争う癖のある貴族が、議長を呼んで立った。

 一同、自分が口切りの役を逃れたのを喜ぶ有様である。直ちに発言を許された。直ちにその人は壇に登った。彼はまず、貴族総体の令聞(れいぶん)《名誉》に関する件だから、私情をを捨てて、一同の傾聴せられんことを望むという思いを述べ、いやが上にも荘重に説き始めた。聞く人も、今までこれほど謹んで、この人の言葉を聞いたことは無い。

 彼は次に新聞を自分の前に開き、
 「私は同僚たる貴族院議員の一人に対し、非難の声を発するの辛さを避けるため、ここでこの新聞を読み上げます。新聞の記事が私に代わって、一切を言うのです。」
と言い、落ち着いた調子でその記事を読み始めた。一同は水を打ったように鎮まって頭を垂れ、ただ野西子爵より後ろに座している人だけが、野西子爵の様子を盗み見た。しかし、傍聴者の視線は、前と後ろとの別なく、子爵の身に集まった。

 発言者が、読んで、
 「ヤミナ城の陥落」
と言うや、子爵の顔は直ちに青くなった。傍聴人はその変わり方の激しいのに身を震わせた。次に、
 「今はその記事の事実なるを、確かめることが出来た。」
と言い、
 「次郎はその後パリーに帰り云々、今は陸軍中将にまで登され云々」
と言うに至って、彼は充分の勇気を絞り集めようともがいた。けれど無駄であった。更にその最後に及び、
 「その醜奴、その売国奴は子爵野西次郎なり。」
と読み終わるに至って、彼は自ら息をも出来ないほど、総身が剛(こわ)ばった様に見えた。

 発言者はどうだと言う様子を無理に隠して、
 「私は我が最も尊敬する議員の一人に対し、このような事実無根の、イヤ事実無根であることを望ましく思うような、醜い風説の顕(あら)われたのを悲しみ、この風説の広がらない前に、当院において調査を尽くし、善後の処置を取られんことを望みます。まずその処置としては、この件を広く議員の討議に付し、次には調査のために委員を設けんことを望みます。」
と言って壇を降った。

 これに何らかの答弁が無くてはならないのは、野西子爵自身である。けれど、彼の喉は最早涸(か)れて、彼の一語を発することをも遮断するようである。彼はほとんど身動きさえもすることが出来ない。わずかに眼を動かして、きょろきょろと同席者の顔を見るのがやっとである。

第二百二回 終わり
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