巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 7. 9

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

二百六回、『委員会』(四)

百合

 人として他人の身体を売るのは罪悪の極である。しかも自分を信任して参謀長にまで取り立てた大恩人の妻と子を、奴隷商人に売り渡すとは、人の城を売り、国を売り、同胞の生命を売った罪の上に、又一段の仕上げを加えたようなものである。これより上の卑劣と罪悪とは心に描くことさえ出来ない。

 この奴隷商の売買証書を読み終わるや、満場は死の境に入ったように静まった。誰も彼も野西子爵が、何事かを弁解するのかと待っているけれど、子爵は弁解をしない。口も動かない。身も動かない。ただその眼を鞆絵姫の身に注ぐだけである。注ぐ積りで注ぐのか、はたまた恐ろしさに、姫の姿からその眼がはがれないのかは疑問である。どうも注がないようにしようとしても、無意識のうちに眼がその方に転ずるようである。

 議長は又も鞆絵姫に向かい、
 「一応巌窟島(いわやじま)伯爵へ問い合わせましょうか。」
と聞いた。
 姫;「いいえ、私が父同様に思っている伯爵は、一昨日ノルマンジーの別荘に行き、このパリーには居ないのです。」
 議長;「それなら貴方は、誰に相談して今日ここにお出でになりました。」

 姫;「もし巌窟島伯爵が居れば、必ず私を押しとめる所でした。伯爵は決してこのような事に、賛成しては下さりません。けれど、私は前から、どうかして父の仇を返したいと、今日を待っていました。このパリーに来ましてからも、家に引っ込んではいましても、毎日、新聞や雑誌を読み、父の仇の野西次郎がどの様なことをしているか、陰ながら知っていました。今日こそは天から彼の罪を暴く時を与えられたことと思い、誰にも知らさずにここへ来たのです。本当に二度とは無い機会だと思いました。」

 議長は再び野西子爵の返事を待った。けれど子爵の状態は初めの通りである。
 「野西子爵、貴方は何とか弁解の辞は有りませんか。」
と議長は気の毒そうに聞いた。なおも返事はない。議長は更に、 
 「しからば私から聞きましょう。第一に貴方はこの婦人を有井宗隣の娘鞆絵姫だと認めますか。」

 子爵はたちまち力を得て立ち上がった。
 「イイエ、認めません。その女は必ず詐欺でしょう。誰か私を恨む者が、このような芝居をして私を陥れる計略でしょう。」
 ほとんど死に物狂いの叫びである。この言葉を聞くやいなや、鞆絵姫の冴えた目は、鋭く子爵の顔を射た。そうして声には裂帛《鋭い音》の響きがある。

 「オオ、貴方は私の顔に見覚えが無いと言われますか。私が四歳の時ですから、見違えるかもしれませんが、私の顔は母に生き写しです。鏡に向かっても分かっています。母の顔はよもやお忘れにはならないでしょう。貴方は私の父を殺した後で、後宮まで追って入り、母と私とを守護して落ち延びる忠臣を殺し、母と私を捕えたではありませんか。奴隷商人エルコパーに、引き渡したではありませんか。父の代理としてトルコ朝廷に使いしたのも貴方です。和議が充分整ったからと言って帰り、城中一同を油断させたのも貴方です。そうしてトルコの攻撃軍を城の中に案内したのも貴方です。」

 一声は一声よりも急に叫び、そうして最後にほとんど止めをさすように、
 「私の父を不意に殺して、その首をやり先に高く差し上げたのが貴方ではありませんか。貴方の身には有井宗隣の恨みが纏(まと)わりついています。貴方の額には有井宗隣の血が注いでいます。貴方はまだ、その血を払い去ることが出来ないでは有りませんか。」

 真に心の底の底から溢れるように湧き出でる怒りには、誰とて敵することは出来ない。委員一同、全く野西子爵の額に、今もまだその血が着いているのかと、疑うように子爵の顔に振り向いた。そうして子爵自らも、自分の額に気味悪い感じが起こったと見え、慌(あわ)ただしく手の甲をもって額をなでた。これが彼の最後の力であった。
彼は「ウーン」と一声絶望の声を漏らして、又椅子の面にへたり込んでしまった。

 今までたとえ、野西子爵に罪なしと思う人があったにせよ、この有様を見ては、誰が又その思いを支えられるだろう。ただ一斉に子爵を汚らわしい人と認めた。しかし議長一人は親切である。彼はなおも丁寧に、
 
 「子爵、どの様な証拠が有ろうとも、我々は貴方が充分な反証を提出することを望みます。反証が無いとならば、委員の中から二名だけを急遽ヤミナ州に派遣し、貴方の請うがままに反証を集めさせましょう。どうですか。そうすれば反証が上がりますか。」

 なんで反証が上がるものか。ヤミナに人をやれば、この上にも売国の証拠だけが出てくるのだ。子爵は又も無言となった。議長はしばらく待った末、又も、
 「サア、貴方の返事はいかがです。」
 子爵はようやく聞こえるほどのかすかな声で、
 「最早、返事は有りません。」

 これは全くの服罪である。議長は声を張り上げて、
 「しからば鞆絵姫の言う所が事実ですか。貴方は自分の無実を言い張る材料が無いのですか。真に貴方は、新聞に疑われたように、罪悪の人ですか。」
と念を押すように問う言葉も、実は宣告と同じ事である。

 子爵は四度立ち上がった。しかし今度は弁解のためではなく、逃げ去るためであった。一応は委員の顔を見回したけれど、総ての顔に宣告が現れている。最早断念の外は無い。

 「アア」と一声叫んだまま、両手につかんで自分のチョッキを右左に引き裂いたのは、胸が圧迫されるように感じたたのを、掻き退けようとしたためであろう。そうして、網を破った猛獣のように、狂いに来るって廊下に出た。後はただ廊下の外に、彼の不揃いな足音が次第に遠く聞こえるだけであった。

 しばらくしてその足音は急ぎ去る馬車の遠音と変わってしまった。たぶん乗ってきた馬車の乗って、自分の家に逃げ帰ったのであろう。
 後に議長は委員全体に向かい、
 「諸君は野西子爵に、売国の所業が有ったと認めますか。」
 返事は満場一致である。

 「認めます。認めます。」
 鞆絵姫は全く議事が終わるまでここに居た。別にうれしそうにも、心地よさそうにも、その顔は変わらなかったが、父の仇を返すことが出来て、胸に満足の意の満ち渡ることは、何となく神々しいその振る舞い総てに現れている。

 そうして最後に議長に向かい、
 「今日は実に私のために光栄ある一日でありました。」
との一語を残し、付き添いの僕(しもべ)に従ってここを去った。その姿は真にブァージル《詩人ウェルギリウス》の歌う、ギリシャの女神かと思われるばかりであった。

第二百六回 終わり
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