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巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
二十一、その顔をこの窓から
戸を叩くその人は確かに我が父、野々内に違いないと蛭峰は感じた。もしこれが世間普通の息子であって、世間普通の場合ならば必ず喜んで戸口まで立って行き、両手を広げて向かい入れるところだろう。所が蛭峰はそうではない。我が父と感じると共に、全く顔色を変えた。
もっとも、彼の気質としては無理もないだろう。今父は恐ろしい嫌疑を受けて警察から狩り立てられている人だ。そうして、自分はこの様な父を持ったと世間に知られてさえ、出世の妨げとなる場合である。
ましてや、たった今、国王から非常な忠勤を褒められて、暗に遠からず、恩賞に与(あずか)るような約束まで得て、御前を退いたばかりだもの。もしも我が父のような、国王の朝廷を転覆しようと言う党派の巨魁(きょかい)が、我が宿を訪ねてきたと分かっては、我が後々にどれほどの、損害になるか分からない。
けれど、戸を叩く人のほうは、少しもこの様なことを気にかけてはいない。「何時まで父を戸の外に待たせて置くのだ。」と半ば冗談のように言いながら自分で戸を押して入って来た。いかにも警視長官が、先刻国王に上奏したとおりの人相である。
顔中髭と言いたいが、実は髭の中から目と鼻ばかり出しているのだ。そうして、外套から杖に至るまで、蝶者(ちょうじゃ)《スパイ》が発見したと言う時のままである。蛭峰は身震いしないわけにはいかなかった。
野々内は笑った。「オオ、今に始まらないそなたの孝行には感心だ。」蛭峰は返事もしないうちに給仕に向かい、「もう好いから、呼び鈴を鳴らすまで、あっちに行っていなさい。」と命じた。
成るほど、この乱暴な父の言葉を他人に聞かれるのは辛いだろう。そうして、自分で立って給仕を送り出すように廊下のところまで行き、給仕が全く階段を下り去る様子を見届け、その上で内から戸に錠を下ろし、更に次の間にも錠を下ろして、初めて父の前に戻り、「お父さん、何か御用ですか。」と問うた、中々厳重な用心である。
父;「ホホー、そうまで用心しなくても、ナニ父は聞く事をさえ聞けば直ぐに帰るのだよ。」と言いながら、席に着いたが、その様子のなんとなく大胆でかつ鷹揚(おうよう)なところは、流石に一党の名士である。過激かは知らないが、兎に角物に動じない。大人物の風采が見える。これを目から鼻へ抜けるような蛭峰に比べてみると、先ず獅子と狐ほどの違いと言っても好い。どうして、この様な人の子に、この様な子が出来ただろう。
蛭峰;「聞く事とは何ですか。」
父;「ナニ、マルセイユに着いた商船の消息だよ。もしかして、その方がかの地を出発する前に、巴丸と言う船が入港したようには聞かなかったか。」聞いたも聞いたも、生涯忘れないほどに聞いているのだ。
分かりました、お父さんは、その船の船長呉氏という人がエルバ島から密書でも、持って来はしないかと、心待ちに待っているのでしょう。」
父;「そうよ、待ちかねたから聞きに来たのだ。」
蛭峰;「いけません。お父さん、もう、その様な陰謀はおよしなさい。どうしても露見せずには済みませんから。」
父;「露見すればナニが悪い。」
蛭;「貴方の身が危険です。実はお父さん。その呉船長は船中で病死して、死に際に自分の手下にその密書を託しました。所が、その手下が上陸するや否や引き立てられて、私の取調べを受け、密書を私に渡しました。それを私が焼き捨てたのです。貴方を助けたいために。」自分を助けたいためとは言わない。
父;「フム、その親切はありがたいようなものだが、お前のすることは、どうもわしには理解できない。けれど焼いたものならいまさら仕方はない。成るほど、そうして、お前はそのことを上官に上手く報告するために上京したのだな。」
蛭峰;「ハイ、少しも貴方の名を出さずに、横領者の帰国だけを陛下のお耳に入れなければならないと思い、急いで上京したのです。」
野々内は驚きも喜びもしない。ただ、相変わらず泰然自若と構いたままで、「お前のしそうなことだ。シタガ国王はお前から聞かされて初めて皇帝の上陸を知ったのか。」
蛭峰;「そうです。」
父;「その様な迂闊(うかつ)なことで、国民に対して政治の責任が尽くせると思うのかなア、警視庁へは年に百五十万円の機密費を使かわせてさ、早く我が党の世になら無ければ、蒼生(そうせい)《人民》の不幸この上なしだ。」
蛭;「その様に仰(おっしゃ)るけれど、国王の警察は貴方の思うより機敏ですよ。既に毛脛中将の暗殺された事件なども余ほど詳しく探っています。」と父の荒肝(あらぎも)を奪うつもりで口を切った。けれど、さほどには驚かない。
「何だと、毛脛中将の暗殺、ナニ、あれは暗殺ではなく自殺だろう。セイヌ川に死骸が浮いていたと言うじゃないか。俺は聞いたけれど、身を投げたのかと思っていた。」
蛭;「アノ気の確かな将軍が何で自殺などをするものですか。殺された上で投げ込まれたと誰もが鑑定しているのです。それだけか、中将がその前夜にサンジャック街のある家で開いたナポレオン党の秘密会合へ招かれて、出席したことも警察は知っています。それ切り帰らなかったそうですから、後は誰にでも推量することができます。」
「そうかなア、あの秘密会のことまで分かっていては、成るほど、幾ら愚かな警察でも推量が届くだろう。けれど、暗殺までは無いのだよ。実は俺もその席に列していたが、中将は我々の魂胆(こんたん)《くわだて》から今後の計略まで黙って聞いてしまった上で、いよいよ一同の血判となった時、俺は王党で、ナポレオン党ではない。決して血判には加わらないと断言した。
勿論会員の立腹は一方ならず、直ぐにその場で中将を刺し殺すと言ったが、中将をその会に誘って来た会長がーーー」
蛭峰は驚いて父の言葉の終わるのを待って居られない。「エ、お父さん、中将をその会に招いた人が、その秘密党の長ですか。」
野々内は少し笑って「そうと見える。まあ聞け、その会長が、会員一同を押しなだめて、中将をして、生涯今夜のことを、他言しないと言う堅い神聖な誓いを立てさせ、そうして、無事に帰してしまった。これまでのことは俺が良く知っている。その帰り道で死んだのだから、俺は自分で河に落ちただろうと思っていた。」
蛭峰;「その様な事情ならいよいよもって暗殺です。党員が待ち伏せしていて殺したのです。」
父;「たとえ、そうとしたところで、暗殺などとその様な聞き苦しい言葉を加えてくれるな。政治の上には決して暗殺と言うことは無いよ。ただ、妨害物を取り除くにとどまるのだ。
たとえば、お前が俺の党の者を捕らえ、これを死刑に処したとて、俺の方では蛭峰が我が党の者を暗殺したとは決して言わない。
もし、中将が我が党に殺されたなら、それは必ず我が党の法律に従い、我が党の裁判を受けて死刑が行われたのだろう。まあ、道理はそうではないか。」
秘密の党派が党の法律とか裁判とか言うのは蛭峰にとっては、非常な耳障(ざわ)りである。けれど、そこは親子という間柄だけに、深く争いはしない。「ですが、お父さん、警察では既にその中将を案内した人の人相まで、詳しく知っていますよ。」
これには野々内も幾らか驚かないわけには行かない。「何だと、その案内した人の人相を、ドレ、どの様な人相だとお前は聞いた。」
蛭峰は父の顔をジッと見つめて、「ハイ、私が聞きましたところでは、頬髭が黒くて沢山あって、それから」
野々内は自分の頬髭をなでながら、「フム、頬髭が黒くて沢山あって、それから」
蛭;「それから背が高くて紺色の外套を襟まで閉めて。」
父は又自分の紺色の外套を見回しながら、「感心に知っている。それなら早く捕まえそうなものではないか。」
蛭;「もう、遠からず捕まえましょう。昨日既にその人をヘロン街の入り口までつけ行って見失い、今日も充分手配りが行き渡っていると思いますから。」
「では、今も網を張っているかもしれない。」と野々内は言いながら立ち、つと窓のところに行き、外の様子をうかがって見ようとした。
蛭峰は後ろから飛びつく様にして引き戻した。その顔はこの部屋の窓から出されてたまるものか。
けれど、野々内は早や外の様子を見て取った。「なるほど、お前の言う通りだ。向こうの角に、三人ほどこの家の入り口を見張っているわい。そのうちの一人は確かに、去年俺の兄弟分を捕まえに来た捕吏だよ。」
蛭峰は全く顔色を失った。「エ、捕吏がこの家の入り口を見張っていますか。」
もしも、父野々内がこの部屋で逮捕されては、父が逮捕されるのは構わないが、自分の身が大変である。
「お父さん、貴方は息子の身を亡ぼすのですか。」と恨めしく打ち叫んだ。野々内はなお顔中の髭の動きに微笑を分からせて、「驚くな、驚くな、王党の警吏に逮捕されるほど、まだこの父は老いぼれては居ないから。」
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