巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

gankutu215

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 7.18

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

二百十五回、『友太郎とお露』(一)

 「友さん、友さん」足元から起こる声も伯爵にとっては真に天から来る声かと聞こえた。「貴方は誰の名を呼ぶのです。」と聞き返して伯爵の手からピストルが落ちた時には、婦人も早やベールをはずしていた。アアこれ野西次郎の妻、子爵夫人露子である。伯爵が殺そうと決心している武之助のその母である。
 「エ、エ、子爵夫人」と叫んで伯爵はよろめくように後に下がった。そうして夫人の顔を見つめた。

 子爵夫人は答えるように、「誰の名、ハイ貴方のお名です。たぶん他の人は貴方を忘れたでしょうけれど、私ばかりは忘れません。友さん、友太郎さん、こうして貴方に願っている私は子爵夫人では無く、お露です。お露です。」
 この名、この人、伯爵が泥埠(でいふ)の土牢に在る満十四年の間、朝に夕べに恋焦がれ、叫び通したその名、夜に昼に思い続けたその人である。

 牢を出て又十有余年、苦しみも恨み見もすべてこの名この人につながり、何かに付けて心に浮かばない日と言っては無かったほどであった。愛か憎しみか、勿論愛ではない。伯爵のような深い恨みがこの女から引き起こって、なお愛の続かないはずは無い。けれど、恨みと言う普通の恨みではなく、その中には憎さもあった。恐ろしさも有った。こうと一言には尽くされない千万無量の思いがもつれ絡んで籠もっていた。

 今この「お露です。」と言う声を聞いて、伯爵はぼんやりと気を失ったような人になった。勿論お露である。お露が子爵夫人になった事は土牢を出て間もなく聞いたところである。その後何度も眼で親しく見た所である。けれど、そのお露の口からお露と直々に名乗るのを聞いては、万感交々(ばんかんこもごも)《色々な思いが代わる代わる》胸に湧く思いがするのだ。ついに伯爵はつぶやいた。

 「エ、お露、お露は久しい以前に死にましたよ。子爵夫人、その後私はお露という名の女は知りませんが。」
 これが恨みも未練も無い平坦な人の口から出る言葉であろうか。そうではない。知らず知らずに自分が団友太郎ということを白状するのと同じ事だ。ナニから何まで思い定めて身を石心鉄腸に固めていると言う巌窟島伯爵としてはこのような言葉を吐くことは不覚の至りではないだろうか。けれど、この言葉は伯爵が言うまいと思うより先に口から出たのだ。伯爵自身の心よりも更に力の強い胸中の一種の発動が、中からこの言葉を突き出したのだ。

 はっと思ったけれど、「一度口に出したことは四頭立て馬車でも追いつけない」とはこのことだ。今更どうしようもない。
 「イイエ、お露は死にません。」と子爵夫人は叫び、更に「ハイ、お露はまだ生きています。生きていて、誰も知らないのに、巌窟島伯爵を、友さんだと知りました。初めてお目にかかったとき直ぐに、―――イヤ未だお目にかからないうちから、ドアを隔てて伯爵の話声を聞いた時、いよいよそうだと気が付いて、魂も消えるほどに驚きました。伯爵自身は誰も知るまいと。サア誰にも気づかれ、見破られはしないと思っておいでなさったでしょうけれど、お露はその時から恐れ戦(おのの)き、心配もし、苦労もして、絶えず伯爵を、イヤ貴方を見張るようにしていました。この度野西子爵があのような目に遭(あ)った事についても、野西子爵を打った手は誰の手だか、お露には良く分かっています。問うにも隠すにも及びません。」

 なるほどこの夫人の今までの挙動を察すれば初めて会ったその時から伯爵を昔の友太郎と見抜いていたのに違いはない。伯爵自身ももしや見抜かれはしなかったかと危ぶんだことが無いでもなかった。けれど、今その口から親しくそうであったとと聞いては又一層の思いがある。或いはこの女のために我身の運の尽きが来はしないかと迄に恐ろしく感じられる所もある。

 それも良く思えば無理では無い。伯爵が伯爵としてこのパリーに現れて以来、伯爵の身分を疑った人がお露で丁度三人目だ。第一はかの蛭峰で、彼は今もってしきりに伯爵の身の上を見破ろうと勉めているけれど、勉めれば勉めるほど脇道に反れて行く様子は、あたかも力負けという姿があって、真に恐ろしい敵だけれど、かえって、今のところだけは恐れるに足りない。

 次に伯爵を疑ったのは野西武之助である。けれど、これは明朝決闘して殺してしまうのだから、蛭峰よりも恐れるには足りない。ただ三番目に現れた野西子爵夫人こそは、最もか弱い相手ながら、その実最も恐ろしい相手ではないだろうか。伯爵の企てを根本から覆してしまうにも至たりはしないだろうか。

 兎も角、伯爵は、もう隠しても無駄だと知った。言うだけのことを言って断念させるほかは無い、、今までおくびにも出さなかった事柄を、いよいよ宣告のように言い聞かせなければならない時が来たのだ。
 「エ、夫人、そう昔の名前を思い出すなら、なるほど野西子爵にも何だか名前が有りました。この度友太郎が打ち倒したのは、野西子爵では無くて、漁師次郎でしょう。友太郎はマルセイユの漁師次郎をこそ恨め、野西子爵とやらを知るはずも無いのです。」

 そろそろと言いながらも漁師次郎という声とともに、眼には得も言われない《何とも言えない》恨みの火が燃えている。子爵夫人は恐ろしさにほとんどひれ伏そうとする様子ながらも、「それ御覧なさい、私の見る所間違いは有りません。それにしても友太郎さん、どうか私の息子武之助だけはお許しください。」

 伯爵は理解が出来ない顔で、「私と武之助との間に敵意が有ることを誰に聞きました。」
 子爵夫人;「それは誰にも聞きません。私の目で見ました。たぶんそのようなことではないだろうかと、子を思う母の情で、大方推量しましたから、劇場まで後を付けて行ったのです。そうして何もかも見て知りました。」
 流石の伯爵もそうとまでは知らなかった。

第二百十五回 終わり
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