gankutu22
巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
二十二、一種の優形(やさがた)紳士
捕吏が早や門の外まで来ているのに、内で談笑平然としているとは、何という肝っ玉だろう。これで有るからこそ、一党の中に重きを成すことが出来るのだ。
「この様なことで捕らわれるようなら、この野々内はとっくの昔に王党の首切り台に登っているワ。」嘲(あざけ)りながら部屋の隅にある化粧台の前に行った。何をするのかと蛭峰が怪しんで、眺めている間に、彼は剃刀を取り出して、顔中の髭を丁寧に剃り始めた。およそ二十分ほどもかかったが、いよいよ剃り終わって、鏡に向かった顔は、ただ口の上に華奢な八字が残っただけで、色も白く年も幾らか若返って、一種の優形(やさがた)紳士である。
そうして、彼は、紺色の外套とふちの広い帽子とを脱ぎ捨て、蛭峰の帽子と外套とを、合うか合わないか調べもせずに身に着けた。先ず、どうやらこうやら似あっている。その上に杖までも捨てて、呆れている蛭峰の前に戻り、
「俺は再び皇帝(ナポレオン)の世になるまで、顔に剃刀を当てないつもりの決心で居たのだが、残念ながら決心に背いたよ。おそらく俺に髭を剃らせたのが、王党派の最後の手柄だろう。」と又嘲った。
蛭峰は聞きとがめて、「エ、最後の手柄とは。」
父;「そうさ、最後に決まっているさ。皇帝が遠からずこのパリーへ乗り込むのだもの。」
蛭;「貴方はその様な夢を見ているから間違います。幾ら横領者に鬼人のような技があっても、わずかな手勢の三十人か五十人連れて、どうしてこのパリーまで進んで来ることが出来ますか。上陸はしても、二里と進まない内に捕らわれます。」
父;「ソレ、その様に思っていることが王党の王党たるところだよ。もう今頃は皇帝が丁度グルノーブル関所から五マイル離れたところまで来ている頃だ。今月の十日か遅くても、十二日には、リヨン府へ入り込むのだ。」
蛭;「入り込めば人民が蜂起します。」
父;「そうさ。蜂起して我先にと皇帝を歓迎するのさ。」王党の警察よりも、我が党の警察が余ほど詳しく人心を探ってあるから。」
蛭;「人心はどちらにしても、早や国王から陸軍大臣に命を伝えましたから、横領者を討滅のために、今日のうちに兵隊が出発するのです。」
父;「それが我々の最も希望するところさ。皇帝はこのパリーに練り込むのに、正式の訓練を経た儀仗兵が居ないのをひどく残念に思っておられる。丁度その派遣の兵が儀仗に充てられるから見よ。」
当時国王の武官兵士で、内心皇帝の帰国を熱望していない者は一人も居ない。名は討滅のための派遣でも、派遣せられるその人々は、第一に皇帝に忠義振り見せるつもりで行くのだから、直ぐに銃をパリーの方に向けるに決まっている。日頃余り根のないことを言わない人がこれほどに、誇張するのだから、いくらか突き止めたところでもあるのかと、蛭峰は幾らか、君が悪い。
「どうして、その様な見込みがつきます。」
父;「見込みではない。事実だよ。我が党には、我が党の秘密警察があって、最大漏らさずに探っているのだもの。」租税を取り立てる力もない秘密党が、どうして非常な費用のかかる警察のような機関を支えるのか、蛭峰には理解が出来ない。父はその不思議を察したのか、
「王党の警察官は月給で衣食を作るのだろう。我が党の警察員は自分で自分の家や衣服を食い減らしてゆくのだから、一日でも油断はしていられない。向こうは何を調べても、時日がかかればかかるだけ旅費、手当てが多く取れる。我が党のは時日がかかるだけ自分の身が詰まるのだから、全く死にもの狂いだ。
向こうが10人で十日かかる取調べなら我が党は一人で一日で運んでしまう。これだけ熱心さが違うから、王党の知らないことを我が党は知っているのだ。その証拠にはお前が上京したことでも、王党の警察は未だ知らないだろう。蛭峰の宿は何処だか探れと言えば、お前が立った後でヤット報告するくらいだ。
我が党の警察ではお前がパリーの門を入って三十分も経たないうちに知っている。それだから俺がこの通りこの宿を訪ねて来たではないか。眼前の証拠に蛭峰はただ顔色を失うばかりだ。
父は親子の心情に発して「良く聞け、蛭峰、お前の国王への忠勤は時が悪かった。もし、お前が皇帝の帰国を第一に国王に知らせた人だと言うことが我が党全体に分かったら、遠からず皇帝の政府になったときに、お前は誰よりも先に免職される。幸いに先ずそのときには、俺が枢要な位置に立つのだから、何とか免職だけは逃れるように取り計らってやるが、決してお前は、この上、人にこの度のパリー上京のことを知られてはならない。
誰の目にも触れないように、密かにマルセーユに帰り、裏口から官邸に入り、、パリーには来なかったような顔をして、神妙に職務をとっていよ。決して悪い事は言わない。そうすれば、この次上京した時は、俺の官邸に車を着けても好いのだから。エ、今余り熱心な王党と分かっては俺に会う事さえ出来なくなる。
親子が政治上の主義を別にすることは仕方がないが、どうか、余り人前の悪くない位にしておいてくれ。そうすれば、俺が顕位(けんい)《際立った地位》に登る時はお前を保護してやるし、お前が時を得た場合には、又俺が、保護して貰わなければならない。未だ自分の力をも計らずに、余り極端なことはしないほうが好いぞ。」
一々蛭峰の急所に当たるような言葉である。蛭峰は我知らず首をたれ、黙然と考え込んだが、そのうち父は飄然(ひょうぜん)《ふらり》として去ってしまった。
そうと気が付くと同時に蛭峰はあわてて窓のところに行き外を覗くと、今出来立ての優形紳士が、待ち伏せている捕吏の前を平気で、イヤ、むしろ嘲るような顔つきで通って行くところである。実に父の手際に感服しないわけには行かない。これを思うといっそナポレオン党に宗旨(しゅうし)《信仰する宗派》を変えたほうがよいかもしれないと言うような気も起きた。
何にしても父の戒め通り、この度の上京が余り人目に着かない様に、早く帰任する外はないと思い、直ぐこの宿の払いを済ませ、父の残した杖や外套は暖炉に入れて燃してしまって、馬車を雇ってここを立出で、かの米良田伯爵に書かせた株券、公債売払いの依頼書をそこそこに仲買人の店に投げ込んでおいて、マルセイユには期待に胸膨らむ思いで帰って行った。
そうして、丁度リヨン府を過ぎる時に、ナポレオンが無事にグルノブルの関所を越えたとの噂を聞いたため、益々心が沈んでしまった。勿論、任地に帰り着いて、裏口から官邸に入ったことは記すまでも無いところだ。
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