巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

gankutu232

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 8.4

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

二百三十二回、『又も蛭峰家』(一)

 野西将軍の自殺で伯爵の大願は先ず一部分だけ成就(じょうじゅ)した。いわゆる漁師次郎に対する復讐が終わったのだ。
思えば妙な復讐であった。伯爵の恨みの深いだけにそのいじめ方もひどかった。彼の名誉を奪い、愛を奪い、そうしてその家を没落させ、彼を広い世界に身を置く所も無いまでににして、悲嘆と憤怒と絶望の中に自殺させた。しかもその事柄が真に天運の循環とも見えるように、自然自然に醸(かも)し出させて、谷に落ち入る転石が勢いで、すさまじい速度を持ってその極所に達した。
 伯爵が自らその身ををば天の使命を受けて、人間世界に勧善懲悪の大活劇を演ずるために生きながらえていると信じるのも無理は無い。

 しかし、大活劇はこれに終わらない。これはただはじめの幕である。次には蛭峰にも及ぶだろう。段倉にも及ばなければならない。蛭峰と段倉は、罪において野西将軍より重くは有っても軽くは無い。どの様な復讐が天降ることやら、今まで記した二百余回の物語で、既に天運の準備が熟したように見えているから、読者の中の炯眼(けいがん)《物事の本質を鋭く見極める力》な人達にはほぼ推察することが出来た方もいるだろう。

 しかし、伯爵の運命と仕事とは人間の想像に超絶している。とても推察などの届く範囲ではなさそうだ。話はこれよりまたも蛭峰家、続いては段倉家などに移り、この両家と伯爵との間にまたがり、入り乱れて進んで行く。
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 さても決闘場の帰りに伯爵の馬車から降りた介添人の一人森江大尉は、その足で直ぐに蛭峰華子嬢を訪ねて行った。これはこの頃に至り、嬢の祖父野々内弾正から、一週間に二回づつ嬢の元に来てよいとの許しを得て、父蛭峰の目を忍んで弾正の枕元で互いに顔を見ることとなっているためである。

 一週間に二度と言えば随分頻繁な逢瀬では有るけれど、思い思われる同士にとってはただ三日目が待ち遠しく、今日がようやくその日となったので、千秋の思いで馳(は)せつけたのである。蛭峰の家はこの頃の打ち続く不孝に何となく陰気な上に、このとき森江大尉を出迎えた嬢の顔が何時に泣く青ざめて見えた。

 森江は挨拶よりも先ず気遣わしそうに、「貴方はどうかなさったのですか。気分にお変わりは無いのですか。」と聞きながら、弾正の部屋に導かれた。弾正の眼に嬉しそうな光が現れたのは言うまでもない。嬢は座に着くや否や、今の問いに答えて、「はい、この両三日、少し頭痛が致しまして、それに食事も何だか進みません。けれど、お祖父さんの言い付けで、有国医師からお祖父さんに下さった水薬を毎朝少しずつ戴いておりますのでーーー、」

 祖父弾正への薬には何か劇薬が入って入るように聞いた覚えがある。森江は驚いて弾正の顔を見ると、気遣うには及ばないと保証するような色が眼にある。
 森江;「そうですか。それは又―――。」
 華子;「大層苦い薬ですよ。最初は小さい匙(さじ)にただ一杯やっとの思いで飲みましたが、やはりお祖父さんのお指図で段々量を増し、今朝はその匙で4杯までになりました。」

 森江は弾正の意を測りかねてただ空しく調子を合わせ、「そうですか。毒薬でも少しの分量から初めて、段々に飲み増して行けば、後には二人の人を殺すほどの量を一度に飲んでも、さほど応(こた)えないようになると言いますから。」

 嬢はなおも前の糸口を継ぎ、「あんまり苦いので、口の中にその苦さが残ってでもいるのですか、今次の間で薄い砂糖湯を飲みましたのに、それさえ何だか苦いように思いましたから、半分飲んで止して来ました。」

 砂糖湯が苦いとは、道理に無いことである。
 森江;「それは何か混じり物でも有ったのでは有りませんか。」森江が怪しむよりも弾正は全く驚いた様子で、その眼が炎のように輝き始めた。けれど華子はそうとも知らず、「その上に何だか眩暈もするように感じまして、もう少しでコップを落とす所でした。」

 物を飲み、眩暈がするとは、先ごろこの家で米良田伯爵夫人が死に、又老僕忠助が死んだのと同じ兆候ではないだろうか。森江はそうとまでは気が付かないけれど、弾正は確かに気が付いたらしい。眼の炎は燃え上がるほどに見えた。

 華子はようやくそれと見て、「お祖父さん、どうか為されましたか。」問われて「大変だ、大変だ。」との言葉が眼の外に浮き出るように現れた。直ぐに華子は、例の通りアルファベットの文字表を取り、詳しく祖父の意を問おうとしたが、このとき本家から下女が来て華子に向かい、「段倉男爵夫人と夕蝉嬢が共にお出でになりました。直ぐに客間にとお母様が貴方をお召しです。」

 段倉夫人が来たのはこの頃、噂の高い皮春小侯爵と夕蝉嬢との間に縁談が纏(まと)まった披露の為に違いない。それならば顔を出さないわけには行かない。華子は祖父にも森江にもしばしと断って座を立った。

 後に森江はかのアルファベットの文字表を取り弾正に、「華子さの代わりに私が貴方の御意中を伺いましょう。」と言って表の文字を順々に指し示しながら、およそ十分間ほどを費やしてようやく弾正の意味を解することが出来た。それは、「嬢が半分飲んだという苦い砂糖水の残ったコップとその水をたらした水盤とをこの部屋に取り寄せよ。」と言うのであった。

 森江は直ぐに嬢の侍女を呼び、その意を伝えると、侍女は平気な顔で、「そのコップのお砂糖湯は、残っている分を今お嬢様が飲み干してお出でになりました。」
 森江;「そうして水盤の水は」
 侍女;「それはお坊ちゃまがアヒルに飲ませると言って水盤ごと庭の方に持って行きました。」

 半分飲んでさえ眩暈がしたというその砂糖水を飲み干したとは、全く砂糖水の苦さを我口のためと思ったのであろう。米良田夫人も忠助ものどが渇くのを訴えたところから見ると、嬢も喉が渇いたのに違いない。弾正は侍女のっ返事を聞くや否や、たちまち眼に涙を浮かべ、嬢が今立ち去った戸口をキッと睨みつけたまま瞬きもしない。

 森江はそれほど深くは事情を知らないから、弾正の涙を理解することは出来なかったけれど、もし理解できたら嬢が客間から生きて帰るか否かをさえ心配する所だろう。全く弾正の眼は華子を死人と思って泣くのらしい。

第二百三十二回 終わり
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