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巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 8.8

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

二百三十六回、『段倉家』(二)

 「何の、野西武之助はあの通りでも、この父の眼鏡にかなった皮春小侯爵に限っては間違いはない。全くそなたが生涯を托するのに足りるのだ。」と段倉は娘の愚痴に対して慰めるように言い切った。夕蝉嬢は別に慰められた様子も無く、「ナニ、お父さん、私が婚姻の約定書に調印さえすればそれでよいのでしょう。その後であの方に生涯を托そうが託すまいが私の勝手では有りませんか。」

 何だか調印はするけれど、結婚はしないと言うようにも聞こえる。段倉は目を丸くし、「何、調印はしても生涯は托さないとな。その様な奴が有るものか。調印が即ち結婚ではないか。結婚が即ち生涯を托すというものではないか。調印はしたが結婚はしないと言うわけには行かない。」
 嬢;「ナニ、調印も結婚もするのですよ。何でも貴方のお言葉の通り、段倉銀行の助かるようにはしますけれど、その後は私の好きなようにします。」

 何だか真に結婚する気が無いように聞こえるけれど、あまり奥の奥まで強いては折角承知させたことを又打ち壊す恐れがある。実は親ながらも嬢の並大抵でない強情を恐れているから、なるべくは無事に機嫌をを取って置かないと。「そうさ、何でも約定が円満に運んでこの難局を逃れることさえ出来れば好い。いよいよ段倉銀行が第一流の信用を支えて、父の事業が滞りなく進むようになったら、父はどの様にでもそなたに礼をし、そなたの言うことも聞きますよ。」
 嬢は何やら一人頷き、「兎に角、調印に滞りは有りませんから、それだけは御安心を下さい。」と奥歯にものが挟まったような言葉を残して去った。

 このような間に嬢の夫たるべき皮春小侯爵の方はどの様なことをしているだろう。彼は自分の巧みな駆け引きでいよいよパリー第流の銀行家から妻を得るまでに漕ぎ着けたのは、勿論嬉しくてならず、この結婚が即ち自分の身に大保険を付けるのと同じ事で、これさえ済めば又と自分の身が破滅するようなは来ないと、ただ喜びに満ちてはいるけれど、調印のときに三百万の大金を積むと言うのが少し気がかりである。

 自分の財産といっては月々巌窟島伯爵の手から出る五千金のほかには何も無い。ただ伯爵の言葉を当てにしてその時までにはどうかなる事と信じてはいるけれど、未だその三百万が父皮春侯爵と言う名前で手元にへ届いたわけでもなく、又巌窟島伯爵から受け取ったわけでもない。そうして結婚と言い、調印と言うことは早や目の前に押し寄せている。何でも今一度伯爵に会い、堅く頼み込んで置かなければならないと、二度も伯爵を訪ねたけれど、不在であった。

 三度目はいよいよ今夜が調印と言うその日の朝であったが、伯爵の邸を目指して行く道で丁度伯爵が何処からか馬車に乗って帰るのに出会った。小侯爵は直ぐにその馬車に寄り、「伯爵、閣下にお願いが有りまして何度もお留守に伺いました。失礼ですが丁度幸いですからお馬車の端へお乗せ下さい。お宅へ着くまでに話してしまうだけの短い事柄ですから。」

 もしエリシーの大通りを伯爵の馬車に相乗りして行く事が出来れば、ただそれだけでも金銭に代えられない程の大信用が得られるわけだ。日頃の伯爵ならば一も二も無く、「サアこれへ」と言って座を譲るはずであるのに、ただ簡単に「後からお出でなさい。」と何だか無愛想に言い切って行ってしまった。しかし、後からでも「来い。」との一語があるだけは安心だが、直ぐに続いて伯爵の邸に行き、うやうやしさの中へ嬉しさを混ぜ込み、

 「第一閣下に喜んで戴かなければなりません。いよいよ夕蝉嬢と今夜結婚の調印式を挙げることになりました。」
 伯爵は好いとも悪いとも、口にも顔にも現さず、単に、「それから」
 小侯爵;「つきましては、父侯爵はロシアに行くと言って先頃出発したまま未だ帰りません。だれか父の代わりに父分として私を導いて下さる方が無くては不似合いですから、どうか貴方にーーー」

 彼は先にも記した通り内々伯爵を自分の本当の父だろうと推察している。この言葉でそれを試すことが出来るのだ。
 伯爵;「どうか、私にその父分を勤めてくれと言うのですか。それは出来ません。」
 小侯爵は父に甘える子の様に、「どうかそう仰らずに。」
 伯爵;「イイエ、いけません。第一私は初めからこの結婚に不賛成です。貴方へも段倉氏にも、何度もそのことは告げました。」

 大一流の大金持ちとの縁組を不賛成とは、流石真の父だけにこれよりも更に立ち勝る縁談を考えているのかも知れない。しかし、そこまで欲張って待っていられない。
 「でも今更破談にも出来ませんから、ご不満でもどうか父分を。」
 伯爵;「私がそれを勤めることが出来ない第二の理由は、私はトルコにもエジプトにも幾らか後宮を有し、数十人の妾を蓄えて居ります。この一夫多妻の実行者が、一夫一婦の制度を取るこの国の結婚へ、客として招かれるのはまだしも、父分などとして後でどれほどの非難を受けるか分かりません。貴方に父分になってくれと所望されるのは五百万の金を貸せと言われるよりも辛いのです。金ならどうでもなりますけれど。」

 叱るのか励ますのか訳が分からない。小侯爵は世に言う牡丹餅でほっぺを打たれるような気持ちで、直ぐにその金という語にしがみ付き、「ハイ、金も願わなければなりません。調印の時に積む三百万の金が、いよいよ父から来るのでしょうか。」
 伯爵;「それは来るでしょう。父上皮春侯爵が送ると言われた以上は必ず途中にあるのでしょう。」

 小侯爵;「もしその着くのが間に合わないときは」
 伯爵;「調印を延ばしても好いでしょう。」この冷淡な言葉にはぎょっとして、「それは出来ません。既にパリー中へ招待状をまで出しました。貴方のお手元にも来ていましょう。」
 伯爵;「そうです来ています。なるほど日取りは今更かえることは出来ないので、それではこうしましょう。私の考えでは必ず調印の間際にその席に届くことに、父上が取り計らってあるだろうと思いますけれど、もし着かない時は、そうですね私が用意としてロスチャイルドの三百万円の引き出し切手をポケットに入れて行きますから、それを貴方に渡しましょう。」

 小侯爵は浮かび上がった。「オオ、お父さん」の言葉が我知らず口まで突いて出たけれど、父の方で隠している秘密をこっちから破るようにして不興を受けては元も子も無くなるとの思いが、流石、際どい場合に慣れているだけこのとっさの場合に起こり、思い直して、「イヤ、この件に付き閣下の御尽力は謝する言葉も有りません。」

 伯爵はこれを聞きとがめ、「この件に付いて何を私が尽力しました。今も言うとおりこの結婚に私は徹頭徹尾反対では有りませんか。」
 小侯爵;「ですけれど、最初私を段倉男爵にお引き合わせ下さって。」
 伯爵;「これはけしからん。何時私が引き合わせました。単に私のオーチウルの晩餐会に招かれて、その席で貴方は自分で段倉と話を始めたでは有りませんか。私は引き合わせた覚えは有りません。」

 小侯爵;「そうですけれど、私が皮春家の息子ということも貴方が、誕生証明書まで取り寄せて証明してくださって。」
 伯爵;「オヤ、それも間違いでしょう。あの証明書は柳田卿から貴方に渡してくれと送って来たのを、私はただその頼みに従って貴方に渡したまでのことです。柳田卿からはたとえ礼を言われることは有っても貴方から感謝されるいわれは有りません。」

 小侯爵;「ですが、月々の小遣いを下さって。」
 伯爵;「イイエ、小遣いも私は貴方に一銭も遣ったことは有りません。貴方は自分の父上の許しただけしか使って居ないではありませんか。今夜の調印にたとえ三百万を立て替えるとしても、それはやはり柳田卿への友好のためで、貴方のためではありません。直ぐにその金は皮春侯爵から利子を付けて返してもらうのですから、私はただ金持ちの本分として、自分の儲け仕事するのに過ぎないのです。」

 こうよそよそしく言うのを聞いても、小侯爵の心に父という思いは無くならない。父だからこそ、この様な不親切らしく見せて親切にくれるのだ。彼はただ従順に、「どちらにしましても、私は感謝する言葉を知りません。ただ神妙にして他日貴方から謝することを許されるときを待つ以外は有りません。」と、全く我父の肝の底へまでも応えるだろうという積りでその実全く見当違いの言葉を残して去ったのは笑う以外は無い。
 後で伯爵はただ微笑んだ。全く段倉家にも天の裁判の落下するときが来たようだ。

第二百三十六回 終わり
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