巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

gankutu237

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

二百三十七回、『段倉家』(三)

 欲、欲ほど人の目をくらませるものは無い。大抵の賢者でも欲に心が動くときは愚人にも笑われる愚なことをする。今、段倉男爵が皮春小侯爵といわれる一少年を自分の娘夕蝉の夫と定めたようなことが全くその適例である。いかにイタリアの旧家と称していても、又いかに巌窟島伯爵と親密らしい間柄といえども、今までの素性経歴が分かっている訳でも無し、実に何処の馬の骨とも知れない者というべきである。

 イヤ何処の馬の骨でも無い。コルシカ島に育った私生児の弁太郎である。どの様な罪、どのような悪事を犯しているか、段倉男爵こそ知らないが、年には似合わない長い経歴を持っていて、もしその筋に知れたならば、ほとんど首が二つあっても足りないほどの男である。それに段倉が惚れ込むとは、惚れ込まなければならないように準備立てする人があるにしても、実は欲心に誤らせられたのだ。

 一旦惚れ込んだ後は、たとえば巌窟島伯爵などのような人が諌(いさ)めれば諌めるだけ益々熱心さの度が増すのだ。一つは彼の運命が傾いて、イヤ不義の富貴が尽きる時が来て当然の天罰の加わると言うものでも有ろうけれど、あんまり気の毒だ。

 彼段倉の見込みはただこの婚礼によって我銀行の財政を救うという所にあるけれど、それが欲の欲たるところである。無事に行った所で一家の汚辱、もし無事に行かなければ、恥の恥。どちらにしてももう逃れられない災難の網にかかっているのだ。巌窟島伯爵が一人微笑むのも無理はない。

 それはさて置き、いよいよ調印式の当夜とはなった。調印式は即ち結婚の披露の式なのだ。案内の時間は夜の九時というのだけれど、その時間に行っては混雑のため段倉夫婦及び花嫁へ充分な喜びを述べることが出来ないかもしれないと、手回しの良い人たちは宵の中から詰め掛けて定刻前に幾百千の客が集った。

 式が済めば饗応もある、舞踏もある。徹夜の宴に歓楽という歓楽をし尽くすのだ。勿論それぞれ用意も行き渡っている。第一の客間である大広間の中央に少し高く式場を設け、第二、第三の客間まで見ることができるが、まばゆいばかりに飾り立て、照り添う灯火の光に不夜城の有様も想像させられる。

 式場の近くに集うのはいずれも当家と特別に親しい人達か又は世間に最も高く尊敬される人々で、段倉夫婦及び花嫁花婿も大抵はその辺を離れないように勉めているらしい。この様にして」いよいよ九時の時計のなる頃には、入り来る人の数はいやがうえにも多く、一々にその姓名を報告する取次ぎ人の声も、良くは聞き分けけられないほどであったが、そのうちに一同をしてたちまち鳴りを静めさせたのは「巌窟島伯爵」との一声である。

 別に伯爵の身なりが目立つというわけではない。かえって他の人々より質素なほどに作っているけれど、その勢いは磁石が鉄の砂を吸い付けるごとくである。主はもとより来客の中にも伯爵のそばに馳せ寄ったのが何人という数を知らない。伯爵は一様にこの人々に短く挨拶をしたが、少し他より長かったのは蛭峰夫人に対してである。もっとも他の人は大抵夫婦連れなのにこの夫人が単身で来ているため特別に慰め問うたのであろう。

 「蛭峰さんはどちらに。イヤ令嬢はどうなされました。」
 夫人は娘華子が過日来病気で今もって床を離れることが出来ないことから、蛭峰が公用のために妨げられて来会することが出来ないことを告げた。公用と聞いて伯爵は少し顔色を変えて、何事をか言おうとしたけれど、丁度このところに網里女史に手を引かれて花嫁夕蝉嬢が来たために言葉を留めた。

 花嫁の挨拶に続いて網里女史も伯爵に向かい、「先日はイタリアの音楽師へ宛て紹介状を書いて頂き有難うございました。いずれ遠からず、かの国へ行きますからお陰さまで万事都合よく道が開けるだろうと思います。」と言った。かくて女史が退くと共に、伯爵は又蛭峰夫人に向かい、今言いかけた言葉を継ごうとしたのに、今度は花婿小侯爵が近づいた。

 彼は調印の時刻が近づくに連れ、父より送る三百万の大金がもう来るか、もう来るか、来ればどの方面から現れるるだろうと、ただひたすら気をもんでいたけれど、伯爵の顔を見て、やっと安心した。確かに伯爵のポケットには昼間約束した通り、三百万の手形が一枚入っているのだから、それを忘れられては困る。忘れさせない用心のため彼は、「先刻のお言葉で私は生き返った心地が致しております。」と婉曲に念を押した。伯爵は軽くうなづいたが、その意味は、「ナニ、三百万の金よりももっと大変な材料を持って来た。」と言うのにあったのは、後に至って理解させられた。

 小侯爵が去ると共に伯爵は三度蛭峰夫人に向かった。けれど又も妨げられた。今度は公証人が、「これよりいよいよ調印に取り掛かります。その順序は第一が段倉男爵、第二が夫人、第三は皮春小侯爵の父上の代理人、第四が皮春小侯爵、第五が夕蝉嬢、」と読み上げたためであった。
 この声に続き伯爵は直ぐに段倉の所に行き、その耳に何事かをささやいたが、多分、「皮春小侯爵より提供する三百万円は私が立て替えます。」との言葉で有っただろう。兎に角小侯爵だけはそう理解した。

 客の中には伯爵が三度まで蛭峰夫人に言おうとして言うことができなかった事柄は難だろうとと怪しむ人が随分有った。これらの人々はひたすら伯爵と蛭峰夫人とに目を注ぎ、耳を傾けていたが、未だ伯爵の口を開く場合は来ない。伯爵よりも先に段倉夫人が蛭峰夫人を占領して「今段倉が調印しますと、次は私ですから、どうか貴方が付き添って来て下さい。」

 蛭峰夫人;「ハイ、お言葉に従いましょう。けれど、蛭峰が公用のために来ていないのが残念です。夫婦でお付添いをすればよいのですのに。
 段倉夫人;「本当ですねえ、どの様な御用か知りませんが、私共のために一夜だけ公用を延ばしてくださっても好いでは有りませんか。私は蛭峰さんを恨みますよ。」

 伯爵は両夫人の間へ進んだ。「イヤ蛭峰さんよりも私をお恨みください。大検事に急に公用が出来たのは全く私の不注意のためです。」
 これだ、これだ、伯爵が三度まで言いかけたのはこれなのだ。何で伯爵の不注意から大検事にその様な公用が出来たのだろう。およそ何の場合に置いても大検事の公用というほど、人に物凄く聞こえるものは無い。きっと何か恐ろしい犯罪が露見してきたのだろうと誰も彼も思うのだ。

 先ほどから怪しんでいた人々は勿論、その他の人まで釣りこまれて、ただ伯爵の次の語如何(いかん)と耳を傾け、たちまち前後左右に大勢立ち集まった。

第二百三十七回 終わり
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