巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 8.18

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

二百四十六、『華子』 (一)

 厳しく弁太郎を取り調べて巌窟島伯爵の身の秘密を看破しようとは流石に蛭峰大検事である。ここへ目を付けたのは多年の職掌(しょくしょう)《たずさわっている職務》から得た炯眼(けいがん)《物事の本質を鋭く見極める力》と言うべきだろう。

 しかし、段倉男爵夫人はどうあってもこの取調べを延ばしてもらいたい。我娘夕蝉が更にしかるべき夫を決めないうちに弁太郎の噂が益々世に立つようであっては、娘が生涯身を定めそこなうばかりか、母である自分の名誉にまでも少なからず影響すると思い詰めている。ソレは勿論無理も無い所であるだろう。

 夫人はこの心をもってなおも及ぶ限り説得した。けれど、蛭峰が承知しないので、果ては腹を立てて声も荒く、「貴方は職務のため、どうしても罪人を取り調べずには置かれないと言うならば、弁太郎よりももっと手近いところを調べなければならない事柄が有りましょう。内の罪人は捨てて置いても、外の罪人を調べるとおっしゃるのですか。」と叫んだ。

 これは確かに蛭峰の家に怪しい死人のみ引き続くのに、蛭峰が職掌《たずさわっている職務》ながらその原因を調べずに捨てて置くことを指したものである。既に世間でひそひそ噂している所なのだ。蛭峰はかって赤らんだことは無いだろうと思われる顔を火の様にして、面目なさそうに俯(うつむ)いてしまったが、ややあって、

 「イヤ、夫人、世間で、私の家の不孝に対し様々な噂の在ることは知らないでは有りません。今は貴方までその噂にかぶれ、そのようなことをおっしゃるとは誠に私はの遺憾《残念》とするところではありますが、既に証拠の挙がっている罪人と、まだ誰とも目指すことが出来ない事件とは、事のわけが違います。私の家の不孝といっても、明らかに誰のした事とか認めることが出来るなら、私は決して容赦は致しません。蛭峰の一身は一身でなく、法律の道具ですから、丁度弁太郎を厳重に取り調べるように、我が家の者をも厳重に調べます。けれど、夫人、この家のことはただ、世人の疑いに留まっていて、なんらの取りとめるところも無いのです。」

 ほとんど自分で自分の穴を掘るような言葉ではないだろうか。
 夫人;「イイエ、私は達て御自分の内をお調べなさいと言うのではないのです。ご自分の内を伸ばして置くように、小侯爵イヤ、弁太郎とやらの件をも伸ばしてくださいと言うのです。」
 蛭峰;「サア、ソレが出来ないのです。」
 夫人はなんと言っても甲斐が無いことを悟り、、ほとんど席を蹴る程の剣幕で立ち去った。これで弁太郎の裁判もそう遠くは無いということに決まってしまった。
 *      *       *       *       *       *
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ソレはさて置き、この様にまで言われる蛭峰の家は実際どうだろう。生死の境に押し寄せていた、華子はどうなっただろう。
 今もなお華子は生死の間にさまよっている。夜と無く昼と無く、ただ昏々(こんこん)と病床に眠っているが、真に眠っているかと見れば、醒(さ)めている。醒めているかと見れば眠っている。これがこの様な病人の常である。

 こうなると絶えず当人の目の前には様々な幻影が現れる。或いは父が来るかと見ればある時は恋しい森江大尉が我顔を差し覗いているようにも見え、時によるととんでもない巌窟島伯爵が何か薬を注いでくれるようなことも見える。どれだけが真事であって、どれだけが幻であるか、ソレも当人には分からない。

 イヤ、この日の朝ごろから、いささかその区別が付きかけて来た。それだけ病が好い方に向いたのだ。午後になると又一層その区別が明らかになり、夕方に及んで少し眠気を催した時などは、確かにこれが眠気である。これまでが醒めていたのだと納得し、「アア、こんなに心まで弱くなった。」とつぶやいて、笑みを浮かべそうして笑みのまま眠ってしまった。眠るのが何よりの薬である。

 夜の十二時ごろに及び、再び目が醒めるまで、なおもその笑みが残っていたのは真に百薬にも勝るほどの良い眠りであったのだろう。眼の覚めかたも、今までに無いほど穏やかに、まず唇を動かし次に手を動かし、最後に体を動かして眼を開いたが、そのまま辺りを見回して、「アアもう病は無くなった、夢か知らないが、昨夜も眼を覚ましたとき喉が渇いて、枕元にあった赤い水薬を飲んで、急に体がさわやかになる心地がした。今夜もあの通り乾いている。きっとあのお薬でこの様に良くなるのだよ。」

 言いながら枕元の台に手を差し伸べると、怪しや、襖の陰から、黒い服を着けた人の姿が現れ、台の上のコップを取り、中の薬を水鉢に移し更に赤い色の水を注いで出した。華子はまだ深く思案することが出来ない。そのまま受け取ってこれを飲むと又全身がすがすがしく、眼の覚めた上に又目が覚めた気持ちになった。世に言う甘露の味とはこの様なものであろうか。

 そうして更に、今その薬を注いでくれた人の顔を見ると怪しまずには居られない。「オヤ、まだ夢を見ているのだろうか。」その人は柔らかな声で、「夢では有りません。華子さん、今夜で丁度四晩の間、私がこの通り、寝ずに潜(ひそ)んで、貴方を見張っていたのです。もう貴方は助かります。」

 華子;「誰に頼まれて。」
 その人;「ハイ、森江大尉のために。」
 華子;「大尉の為にーーー、私のために、何ゆえ」
 その人;「私は森江をも貴方をも我が子のように思うのです。父と私をお思いなさい。少しも心配は有りませんから。」
 言葉が更に怪しくも無く、一々華子の胸の中に解けて入るように感じるのは、まだ心に多少の幻が残っているためでもあろうか。

 華子;「父と思って好いのですか。」
 その人;「父と思って私の言葉に従えば病も治り、心配もなくなります。」
 華子;「本当ですか、巌窟島伯爵」

第二百四十六回 終わり
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