巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

二百六十四、『裁判』 (六)

 我も彼も今気絶した婦人の方に振り向いたため、この時蛭峰の顔色がどの様であったかを知らない。もし知ればその相貌(そうぼう)《顔つき》の恐ろしさに化け物かと思うだろう。彼は実に今までの蛭峰ではない。眼なども開いた目から飛び出しそうに見えて、額の辺は種々様々な青筋に絡まれている。頬も引きつった様に見える。或いは彼は発狂するのではないだろうか。こうまで面相が乱れて、それで発狂せずにいられるなら人ではない。

 婦人はその気絶したままに、憲兵の手で場の外に運び去られた。その時にベールが外れて現れた顔は、既に読者の察している通り、段倉夫人である。この夫人がなぜ気絶したかは誰も知る者はいない。又深く怪しむ者もいない。実は今の弁太郎の陳述で、大抵の婦人は気絶しかねないほどに神経を騒がせた。イヤ婦人でなくても、男子でも、少し感じの鋭い人は心を掻き乱されたようになって、気絶する人がいるのは当たり前だと思った。

 婦人の顔が見えた時、蛭峰は、何か眼に見えない手で、首筋を捕らえて引き立てられるように立ち上がった。そうして前の方に体を突き出し、運び去られる夫人の体を引きとめようとするように、両手を伸ばして空を掴(つか)み、やがて呻(うめ)きの声と共にまた椅子の上に、尻餅を突いて沈んだ。

 真に彼の心のうちはつむじ風の吹き巻くような様であろう。けれど、裁判長は無慈悲である。厳格である。少しも彼の苦しみを知らない。イヤ、彼の方へ振り向いて見さえもしない。相も変わらぬ確かな、冷ややかな、しかも鋭い語調で弁太郎に向かい、「その方の申し立ては、常識をもって信じることの出来ない種類である。この様な異常な事柄を主張するには、証拠の上に証拠が無くてはならない。サア、証拠を、証拠を。」

 ここが弁太郎の待っていたところだろう。彼はたった今泣き声で段倉夫人を気絶させたのに引き換え、今度は全くの嘲りの声となり、「エ、証拠を示せとおっしゃりますか。証拠が無ければ私の陳述が信じられないのですか。」
 裁判長;「そうだ。証拠が無ければ一言たりとも事実とは認められない。」
 弁太郎は再びあざ笑った。そうして蛭峰を尻目に掛けながら、「証拠が御必要とならば、先ず蛭峰大検事の態度をご覧下さい。しかる後に私から証拠をお見せ申します。」
 この一言に満場の視線はことごとく蛭峰の一身に集まった。真に幾百千の眼の光に彼の身が焼き殺されないのが不思議である。イヤ、焼き殺されはしないが彼、蛭峰は静かにこの視線を受けている力が無い。フラフラと又も椅子から立ち上がった。

 彼の髪の毛はいつの間に掻きむしったかぼうぼうと乱れて立っている。彼の歯の根はかつかつと上下に震えて噛み合っている。彼の足には身を支える力が無い。よろよろとよろめきながら、テーブルの横手へ突き出るように現れてそのテーブルの隅をしっかりと杖に突き、弁太郎を見下ろした。その様子の物凄いことは何とも譬(たと)えようが無い。

 弁太郎は彼の顔を見上げた。実に異様な親子の対面である。しかしなおも弁太郎は嘲(あざけ)る調子で、「お父さん、お父さん、裁判長閣下が証拠を示せと言いますが、どうしましょう。証拠を示さなければならないでしょうか。証拠を示しても好いでしょうか。エ、お父さん。」

 蛭峰の土壇場(どたんば)はこれである。彼は口を動かしたけれど、直ぐには声も出ない。喉が乾ききって声を為さないのだ。何度彼はつばを飲み込んだ言だろう。ようやくにして彼はかすれるような声を絞り出して、「否、否、それには及ばない。証拠は無用だ。無用だ。」と打ち叫んだ。裁判長は驚いただけでなく、怒りを帯びた。「これはけしからん。証拠を無用などとはどういうことです。」と咎めた。

 全く蛭峰は力ガ尽きた。いかに強情な天性でも、これだけ明白に我が罪を数えられてはこれに言い勝つことが出来ようとは思われない。彼の声は悲鳴である。「最早私は争う言葉が有りません。重い強い明らかな非難をもって、この身を叩き砕かれました。これが天罰と言うものでしょう。復讐の神が私を捕えたのでしょう。更に証拠は要しません。この青年のーーーこの被告のーーー言うところは全て事実です。」

 少しも疑いを入れるところの無い白状である。服罪である。満場は静か、また静か、ほとんど薄気味悪いが悪い。けれど多くの人は蛭峰の言葉を直ぐには信じることが出来ない。恐らく発狂したのだろうと思った。裁判長もそう思った一人である。「何とおっしゃる、蛭峰氏、貴方はこの暴言に屈服しますか。正気の沙汰では有りません。日頃の貴方の明白な頭脳はどうしました。被告の余り恐ろしい言い立てが心を転倒させたのですか。サア、サア、蛭峰氏、しっかりしなさい。この様なことではいけません。」

 いくら励ました所でもう甲斐が無い。蛭峰は骨までも抜かれたようにぐったりと頭を垂れた。前にかちかちと鳴った歯の根を又一層震わせて、あえぎあえぎながら、「イヤ気が転倒は致しません。この通りもう外形は変わりましたけれど。」真に彼の外形は変わり果てたのだ。「心は未だ確かです。私は罪が有ります。裁判されれば」確かに有罪です。この青年が言うとおりです。ただ今限り私はこの身を後任の大検事に委ね、しかるべく裁判を経て相当の罰を受けるのを待ちます。」

 これが彼の最後の言葉である。彼は今まで杖としていたテーブルの隅を放し、前につんのめるように歩んで横手にある出入り口の所に行った。もうこの場に耐えられずどこかに立ち去るのである。

第二百六十四回 終わり
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