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巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
二百六十六、『断末魔』 (二)
苦しみの時間は短くても長い。一夜の間に頭が全く白髪になる人さえある。この様なのは、一夜に人生五十年の苦しみをし尽くすのだ。蛭峰が裁判所から我が家に帰る馬車の間は時間にすれば極短かった。けれど苦しみは長かった。彼にとってはほとんど五年、十年にも向かった。
彼はその間に、しみじみと自分の悪人と言うことを感じた。悪を懲(こ)らす天の裁判が今は自分の身に下ったと知り、何度と無く「天の裁判」と言う言葉を口走った。それだけでない。自分が妻の悪事を咎(とが)めるのが無理と言うことも思い、どうしても妻が自殺しない間に帰らなければならないと焦(あせ)り、引き続いては息子重吉のことにも思い及ぼし、こうなった上は妻と二人で重吉を連れて他国へ逃げ、夫婦とも善人に帰り、ただ子を慈(いつく)しむ愛の一心ををもって余命を幸いに送られるように思った。
彼の心はただこの一念に集中し、妻の部屋の戸を破ってその中へ転がるように入った時には、他のことは何にも思わなかった。
転がり込んで中に立っている妻の姿を見た時にはただ安心した。妻の手から空き瓶の落ちたことも知らない。その立っているのはこれから倒れるのだと言うことも知らない。単にまだ生きている者と思う嬉しさのために、彼は有難涙を垂らした。今まで怒張していた満面の満身の神経が又ことごとく一時にここで緩もうとした。
彼は両手を広げ、「オオ、妻か、未だ生きていてくれたのか。」と叫び、ほとんど抱きつこうとしたが、このときに初めて気が付いた。
勿論多量の毒薬を飲んで、今死んで倒れようとするばかりの人だから、相貌に違った所がある。彼が先ほど裁判の室からよろめき出て、廊下に満ちている人々を驚かせ逃げ去らせたときの顔と今彼の見る妻の顔とどちらが恐ろしいだろう。
彼は裁判所の群集が彼から尻込みごみしたように、今妻の身からたじろいだ。妻は倒れ伏そうとして、彼が退くだけ進み出で、最早こ世の声では無い声で、「お言葉の通り、自分で自分の身を裁判しました。これで貴方はご満足でしょう。」無限の恨みを込めて言い、戸口の所まで蛭峰を負って倒れた。これが四人まで人を毒殺した蛭峰夫人の最後である。人を殺す毒薬が最後に身を殺すこととなったのだ。
蛭峰は倒れた妻の身にしがみ付くところだけれど、今見た有様の物凄さと自分の罪の恐ろしさにその勇気が無い。ただ「アッ」と叫んで逃げた。逃げて彼は何処へ行く。何処とも知らず自分の部屋に入り込もうとしたが、直ぐに又思い出した。妻は死んでも息子重吉が残っている。重吉を連れて逃亡しなければならない。アア、重吉は何処にいる。「重吉、重吉」と呼び立てる声は、空な家中に山彦のごとく響いた。
今は下働きの女、男も逃げ去って、返事する者がいない。彼は三度叫んだ。「重吉、重吉は居らぬか。重吉は何処にいる。」自分の声が直ぐ自分の身に襲い返るように感じられて、恐れは益々加わるばかりである。ついに一人、この問いに返事した者がある。それは隠居所にいる野々内弾正のそばに使われている下男である。「若様は、さきほど奥様がお呼びになり、奥様の居間に入ってそれきり出ていらっしゃらないようです。それでは今妻が死んだあの部屋のどこかに重吉もいたのかも知れない。
既に血眼になっているいる蛭峰は、眼から炎を射て、又も妻の部屋に飛んで行った。この部屋に入るには、恨みを帯びて戸口に倒れている妻の身を跨ぎ越えなければならない。鬼胎の極に達している彼の神経にはそれだけの勇気が無い。「重吉はいるか。」と又叫んだが答えが無い。今度は恐る恐るに頭を差し伸べ、部屋の中を覗いてみた。一方の隅にあるソファーに有難や重吉は眠っている。いや眠っているのだろう。横になって頭だけ見えている。
「オオ、重吉、居てくれたか。」と言い、嬉しさに我知らず妻の死骸を飛び越えてそのそばに行き、膝を折って重吉の背中に手を当て、「オオ、何も知らずに眠っているお前の可愛らしさ。コレ重吉。父が若い頃からの不心得のため、お前までも母のない子にしてしまった。許してくれ。許してくれ。その代わり、今からはこの父が、お前を遠い所に連れて行って可愛がってやる。眼を覚ませ。目を覚ませ。」いたわって抱き上げた。その体は早や冷え切って石のようである。眠っていると思っていたのは死んでいるのだ。
「エ、エ、エ」と蛭峰は三声三様に叫び分け、その頬に顔を当てた。けれど、生気は残っていない。「ど、ど、如何して死んだ。誰が殺した。」死骸の上にうっ伏して正体も無い程に見えたが、しばらくして跳ね返されたように立ち、部屋中を見回すと、初めて目に付いたのはテーブルの上の手紙である。コレは妻の書置きなのだ。
取り上げて読むと文は短い。
「私は良き母にて候。重吉のために四人まで人を殺し候。今は貴方の裁判に服し候。されど、良き母は子を捨てて去るものにこれなく候。重吉を引き連れてこの世を立ち去り候。」ただこれだけである。妻がその身よりも先に重吉を殺したのだ。四人死んだその上に、妻、その上に又子、全く蛭峰の家の種は尽きた。
彼は泣くにも涙もない。どうして好いかそれも分からない。もう何でも生きている人の顔を見なければ自分の心が消え入ってしまう。誰にでも好いから一言慰めてもらいたい。ここが即ち人間最後の弱点というものであろう。悲しみ極まれば誰かに慰めてもらいたい。下僕にでも好い。飼い犬にでも構わない。彼はこの様な窮地に達した。
誰に慰めてもらおうか、誰にと言って、もう全身不随の野々内弾正の他にこの家には人は無い。口の利(き)けない相手でも好い。未だ生きているその人の顔を一目見るだけでも、死に顔から得た感想のいくらかは埋め合わすことが出来るだろう。彼は再び妻の身を踏み越えて逃げ、この隠居所に入った。あたかも猟夫の懐に入る窮鳥の状態である。
この隠居所で彼を迎えたのは誰ぞ、彼は弾正の他に誰も居ないことと思って居た。所が他の人が来ていた。それはイタリアの暮内法師である。
第二百六十六回 終わり
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