巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

gankutu273

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 9.14

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

二百七十三、『結末』 (五)

 壁に残っている数取りの筋や血の痕(あと)などは、いずれも伯爵に、ひしひしと昔のことを思い出させる種とはなったけれど、これにも増して更に伯爵の心を動かした記念が、同じ壁に存している。

 それは伯爵が鍋(なべ)の鉄の柄をもって壁に書き付けた文字である。その句は単に、
 「ああ神よ、我をして記憶の力を保存せしめよ。」
という短い言葉に過ぎない。他の人がこれを見れば、何の意味かと言うことさえ理解出来ないだろうが、伯爵に取っては真に千百巻の書にも勝るのだ。

 血の文字か、火の文字か、ただこの一語を見て前身の血液が煮え返るように感じた。そもそもこの文字は伯爵が全く悔しさの極に達した時、最早自分で発狂するだろうと思い、もしも発狂のため今日のこの悔しさを忘れる様になっては成らない。この悔しさをさえ覚えていれば、どのような復讐でも出来ないことは無いと思い、単に自分の記憶だけを失わないようにしたいと書き付けたものである。

 人生にこの様なひどい境遇と、このような悲しい語が又とあるだろうか。伯爵はこれを読んで拳を握り締め、
 「ああ、俺はほとんどこの語に背き、我が記憶を失いかけていた。我が蒙(こうむ)った損害と苦痛とがどれ程ひどかったか。記憶さえ失わなければ、そうだ、少なくてもこの度の復讐を後悔するところは無い。」
と呟(つぶや)き、パリーを出て以来、多少緩みかけていた心が又はち切れると思うほどに張り詰めた。

 ここへかの番人が提灯(ちょうちん)を持って帰って来て、
 「旦那様、貴方は間違いなされましたよ。ただ今戴いた御銭(おあし)は銀貨ではなく金貨でした。」
 伯爵;「金貨でも好い。取って置け、未だこれから二十七号とやらの部屋にも案内して貰いたいから、それ位の案内量は当たり前だ。」

 番人は直ぐに二十七号へ案内した。これも見る物は総て伯爵の感慨を高くするものばかりである。番人は今の金貨を有り難そうに捻(ひね)り回し、「どうもこの様に沢山戴きましては。」と納めかねる様子であったが、何か思い出したように、
 「このお礼には二十七号の囚人の遺留(かたみ)の品を差し上げましょう。」

 伯爵は飛び立つように、
 「エ、遺留(かたみ)の品、それはどのような」
 番人;「ハイ、私は二十七号のことを聞いた後に、何でも一つの部屋に二十年も居た囚人が何か慰留(かたみ)を残して無いはずは無いと思い、この部屋を、壁から床から綿密に叩き調べて見ましたが、果たして壁に一箇所、床に一箇所、物を隠す場所が有りました。

 そこを開いてそれはそれは精巧に出来た、様々な小道具を何種類も取り出しましたが、いずれもどうして牢の中でこの様なものが出来たかと、あやしまれるような品ばかりです。
 それらはその後、見物にくる人にも土産に分けてやり、又めぼしい品は政府の監獄博物館などへも納め、今は大方尽きましたけれど、一つ大変な品を残してあります。」

 伯爵;「何か知らないけれど、その品を貰って行きたいものだ。」
と言って又同じ金貨一枚を出し、辞退するのを無理に渡した。しかしこの様な無理は受けるほうで余り腹が立たないと見え、自体はしたけれどついに受け取って去ったが、やがて急いで持って来た品物を見ると、かねて伯爵の心に掛かっていた梁谷法師の獄中の著書「伊国統一論」である。

 伯爵は思わず押し戴(いただ)いた。更にその表紙裏を見ると、 
 「汝、雲間に翔ける龍の牙を抜け、野に狂う荒き獅子を踏み殺せ」
と言う古語を書き付けてある。これだ、これが、龍の牙を抜き、獅子を踏み殺す勇気があれば、人間世界に又何の恐れる所が有るだろう。何の難(むずかし)い事業が有るだろう。法師が常に持していたのはこの勇気で、我が身とても、これに引き立てられたのだ。

 わが身は命も、財産も、何もかも総てこの法師から与えられたものだけれど、この勇気こそ何よりもの大切な賜物(たまもの)なれと、再び法師に廻り合ったように喜び、又更に何度かその書を押し戴いた。

 もうこれで長居をする用はない。番人には別に又あまたの紙幣を包み、
 「私の立ち去った後でこれを開いて見よ。」
と言い聞かせ、静かにここを立ち出でて、又も崖(がけ)下に待たせてある舟の所に行き、これに乗ってマルセイユに引き返した。この時はもう午後の五時である。森江大尉に約束した時刻だから直ぐに上陸して墓地に行ったが、大尉は言葉に違えずに待っている。

 先ず大尉が父である森江良造の墓に詣でた。詣で終わった大尉に向かい、今夜直ぐこの地を立とうと言えば、大尉は三、四日逗留したいとの返事である。しからば十月の四日にパスキヤの港に行き、エウラス号という舟を尋ねよ。

 その舟の船頭には委細にことを言い含めて置くので。森江大尉という名をささやけば、直ぐに乗らせてモント・クリストの島へ、十月五日の朝までに漕ぎ着けてくれるだろう。

 十月五日はかねて約束の通り、大尉の死生が決する日だから、この身は早朝よりそこに待ち受けて居ようとのとの言葉を残し、伯爵は一人又港に行き、イタリアを指して舟に乗った。今度は雇い船ではない。自分の遊船である。早くイタリアに行って彼は段倉に追付かなければならない。

第二百七十三回終わり
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