巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 9.15

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

二百七十四、『結末』 (六)

 昔鉄道が開けない頃は、フランスからイタリアに行く客は、多くはフローレンスからストルタ丘までのでこぼこ道を馬車に乗った。そうしてその丘に登ると、もうローマの立派な町が目の下に見えるので、早くも目的の地に着いた様な心地がして馬車の中で胸を躍(おど)らせるのが常であった。

 丁度巌窟島(いわやじま)伯爵が森江大尉に別れ、船でマルセイユを出たのと同じ日の午後である。フランスの紳士と見受けられる一人の旅人が、かのでこぼこ道を馬車で来て、ついにストルタの丘の上に着いた。

 けれど彼は胸を躍らせるような様子も無く、馬車の中で静かに辺りを見回して、誰も窓から覗き込む者が無いのを見定め、いささか安心した面持ちで、今度はそっと胴巻きから何やら紙切れを取り出した。そうしてその表面の文字を一目見て、
 「ああ、未だ無事だ。これさえ有れば、ナニ、何処へ行ったとしても安心だ。」
と呟(つぶや)き、再びそれを胴巻きに納めてにっこりと微笑んだ。そもそもこの客は誰。その確認した紙は何。

 この人は先ず馬車を名高い富村銀行の店先へ着けさせた。もう夜に入って銀行の時間は終わっているけれど、何か特別な約束でもあると見え、直ぐにその頭取の部屋に通され、先刻丘の上で確認したあの紙切れを取り出して渡すと、頭取はじっくりと見て、
 「確かです。払い渡しましょう。」
と言い、会計に命じてこの人に驚くべき大金を払い渡した。

 その額は五百万フランである。一万フランの大紙幣を五百枚。嵩(かさ)はそれほどではないけれど、この様な大銀行ですら、一時にこれほどの取引をすることはまれである。

 客は流石にこれほどの大金を受け取るだけあって、日頃からこの様なことに慣れていると見え、反古(ほご)《書き損じたり、使い終わったりしていらなくなった紙》を扱うようにその紙幣を扱い、うまく体のどこかに納めてしまい、何気なく又元の馬車に乗った。しかし馬車の中で、

 「アア、もしも警察の手が回っていたならどうしようかと心配した。先ず警察も俺の用心には叶わなかった。有り難い。有り難い。これだけ有れば何処へ行ったとしても銀行王になれる。
 いよいよ明日はベニス市を経てビンナに向かうのだ。ビンナならば東西両邦の財源を握るのに都合の好い所だから、十年と経たないうちに又パリーの銀行家を平伏させることが出来る。」
と呟き、自分で自分の知恵に感心した様子である。

 勿論自分の知恵よりもまだ上を越す知恵がほかに有って、はるかに自分を狙っているだろうなどとは思いもよらない。
 今度は馬車をパストリニの旅館に着けさせた。ここは先年野西武之助と毛脛安雄とが泊って、初めて巌窟島伯爵に会ったその家である。

 客は部屋も定まり食事も済んだ後で主人を呼び、明日正午にベニスへ向けて立つゆえ、それまでに馬車の用意を調(ととの)えて置けと命じて床に就(つ)いた。

 「アア、今日まで四夜、眠るというほど眠ったことは無い。色々心配はしたけれど、俺がイタリア方面に落ちたとは誰も知る者はな無く、もし有るならばそれは巌窟島伯爵一人だが、ナニ、伯爵だとて他の人と同じく、俺をベルギーの方面へ行ったものと思って居よう。

 そう思わなければならないように、万事を仕組んで置いたのだから、警察だとてベルギー方面をこそ捜しているだろう。今の銀行の様子で見ても、この辺へ少しも目を着けていないことは分かる。今夜こそゆっくり寝よう。どうしても十時間は眠らなければ、累日(るいじつ)《これまでに積み重なった何日間》の寝不足が取り返せない。こうなってはいよいよ健康が大事だから。」
と大なる未来を持っている人のように、独語して眠ってしまった。

 この頃、ローマの宿屋では、十二時に出発の用意命じて置いても、三時で無ければ出発することは出来なかった。総て時間に掛け値があった。この客も翌日の午後の三時過ぎに初めて出発することが出来た、馬車は二頭立て、たとえでこぼこ道でも余り震動を感じないという上等の作りである。

 けれど、見かけほど早くなく、特に町を外れてからは一層歩みが遅くなったようで、日の暮れて余ほど後に至っても、なお人里の見えないような所を徘徊していた。
 客は空腹を感じたから、窓から首を出して、行く手を見ようとすると、荒々しい御者の声で、

 「この辺で頭を出すと、立ち木に打ち付けて砕けますよ。」
と脅すように言い聞かされた。夜は既に八時になった。余り不審だから時計の磁石を手のひらに置き、マッチを擦ってみると、ベニスの方には向かずに反対にローマの方に走っている。のみならず昼間見たローマの外郭の高い塀がどうやら闇の彼方に見えているように思われる。

 何だか変だから、
 「コレ、御者、元の道へ引き返して居るのではないか。」
 御者は益々横柄(おうへい)《人を見下して偉そうにしている様子》だ。
 「もう少しで約束の所に着くから、安心して黙ってお出でなさい。」

 いよいよローマの外郭と思われる所に着いたが、馬首は更に右の方に転じて山手を指して進み、そのうちに坂道を登り始めたようである。ここに至って客は怪しみが驚きとなり、もしや噂に聞く山賊の馬車に乗せられたのではないだろうかとの思いが初めて起こった。

 「少し馬車を止めてくれ。」
 御者;「もう少しで約束の所に着きますよ。」
 客;「何でも好いから馬車を止めろと言うに。」
 御者;「もう少しで約束の所に着きますよ。」
 何と言っても御者の返事は一つである。

第二百七十四回終わり
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