巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

gankutu31

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

三十一、例の物音

 一椀(わん)のスープも幾らか友太郎の身に生気を付けた。イヤ、死んではならない。死んではならない。兎に角、壁に響くかすかな物音が誰の仕業であるか、それを見届けるまでは、この命を保存して置かなければならない。

 もしや、この物音が、わが身がこの牢から出られる発端ではないだろうかと、この様に疑うと何となく気が騒いで、疲れた体も動悸が打つ。まア身を大事にして、分かるときまで、気長に待って居なくてはならない。

 この時が夜の九時頃である。再び彼は寝台に帰った。そうして夜の明けるまで、夢だか現(うつつ)だか同じ物音が絶えず聞こえるような気がした。
 夜が明けてみると物音は止んでいる。昨夜少しばかり胃に食物を入れたためか、今までに覚えないほどの飢えを感じ、ほとんど胃の底に痛みを感じるけれど、気持ちは、昨日より幾らか力が付いたようだ。
 
 一つは希望の中に少し望みが出てきたためでもあるだろうか。もしも、この望みが、今までの総ての望みと同じように又消えてしまったならどうだろう。
そのうちに牢番が朝飯を持ってきた。何しろ何日も絶食した身が急に普段ほど食べては病気になるかも知れない。

 早や自分で用心する気が出たのは、死を祈っていた身に余り得て勝手であると、わが身ながらきまりが悪い。けれど、兎も角、身は大事だ。又もスープだけを飲み、外に三日に一度与えてくれる魚の肉の、骨の無いところを少しむしって食べた。

 勿論、体に病気があるというわけではなく、健康なものを、無理に自分で攻めつけていたのだから、少し攻め方を緩めさえすれば、直ぐに力が回復するのだ。少しばかりの食物で、ひどく不足は感じるけれど、早や、気分だけはほとんど以前に返った。

 そうして、又も壁に耳を当てて聞いていると、朝の十時とも思われる頃、又あの音が聞こえ始め、昼食の頃になって止んだ。けれど、午後にまた始まった。何だか最初よりはその音が荒々しい。それは幾らか近くなったために、良く聞こえるようになったのかも知れない。

 この翌日になって、或いは典獄《監獄所長》が職人を入れて、隣の室でも修繕しているのではないかと言う疑いが起きた。もしそうならば、この身が助かる発端ではなくて、この土牢が益々頑丈になる知らせと同じ事だ。中々喜んでなどいられない。

 もしこれが囚人の仕業で、牢破りの企てならば、こちらから物音を送れば、必ず驚き止めるだろう。大工か職人ならばその様なことに構いはしない。好し、これを先ず確かめて見ようと思い、ただ一脚支給されている椅子を持って来て、音がこの辺から聞こえてくると思われる壁の部分を、その脚で強く叩いた。ただ一叩きであるけれど、向こうの音はピタと止んだ。

 さては、確かに囚人である。この牢を破っているのだ。こう思うと、無益に驚かせて止めさせたのが、申し訳なくてならない。今に再び始まるかもしれないと、耳を澄まして待っていると、日が暮れても始まらない。

 きっと誰かに感ずかれたと知り、その計画を中止したのだ。本当に済まない事をした。どれほどか向こうは失望したことだろう。いや、向こうが中止すれば、今度はこちらで企ててやろう。向こうが、多分こっちに向かって掘ってくるところだったに違いないから、こっちから向こうに掘って行けばよいだろう。

 こうなると、少年だけに気も軽い。直ぐにも着手したいように思って、牢の中を見回したが、牢を破るような道具がこの中に有るはずは無い。そうして、しかも牢の壁はセメントで固めたもので、岩のようになっている。思うのはたやすいが、行うのは実に難しい。
けれど、難しいことは今初めて知るわけではないのだから、改めて驚きはしない。

 見回す目先に止まったのは、自分が食事に用いる皿である。
これでも、道具には使えるだろうと直ぐに取り上げて、床の上に落として砕き、そのかけらの中で最も鋭く見えるのを二片取って隠した。
もし、瀬戸物のかけらで泥埠の要塞が破ぶれたなら、それこそ天下の奇観であるけれど、彼自身はそうは思わない。

 先ず着手は夜に入ってからと待っているうち、牢番が夕飯を送ってきたが、器が壊されているのを見て、多少機嫌は損じたけれど、「器物を壊すと減食の罰にあうぞ」と叱ったまま、皿のかけらを拾いもせずに立ち去って、又しばらくして外の皿を持って来た。

 かけらをそのまま残してくれる有り難さはたとえようも無い。食事の後で友太郎は、これを拾い集め、部屋の隅に隠して置いて、その上で自分の寝台を取り除け、昼間はその陰に隠れてしまうところに先ず傷を付け始めた。

 丁度この辺が向こうから物音が聞こえた辺り当たるらしい。壁のセメントを、皿のかけらで引っ掻いて、又引っ掻き、かけらの角が丸くなると、又砕いて角をつけては引っ掻き、夜の二時になるまで根気よく続けたが、熱心というものはたいしたものだ。疲れて寝る頃には、粉になって落ちたセメントが手のひらに一杯に成る程になった。

 翌朝、食事の後に又も寝台を動かして着手したが、昨夜付けた傷の大きさで、計算して見ると、毎日十時間づつ、2年の間続けたら、人間の抜けられる穴を、およそ3間(約5.4m)位掘り込むことが出来そうだ。今まで何年経ったのか、壁に付けた筋の暦も三年ほどで止めたけれど、もう六年は経っているだろう。入獄の初めからもしやっていたなら、既に牢の外まで突き抜けていたかもしれないのにと、いまさら残念な感じもする。

 段々と掘るに従い、又割合につぶれやすい所もあり、この日のうちに壁に塗りこんである、石にまで届いた。石の周りを掘り減らして、一度に石一個を抜き取ることが出来れば、その跡は三十日掘ったよりも大きな穴となり、石から石と意外に進歩が早いかもしれない。

 堀る事三日に及んで、石一つをはずすことが出来たが、勿論牢番が来る頃には、その石を元に差し込み、寝台も元の通りにしておくのだ。けれど、もしこれより大きな石に出くわせば、てこでなくても幾分か長い力の或る鉄器でなくてはならないわけだが、せめては火箸でも良いから手に入らないだろうかとひたすら思いながら、今度は又少し大きな石を抜くことが出来た。

 丁度この時である。数日来止んでいた例の物音が又も壁の向こうから聞こえて来た。今度は石を抜いたあとの穴に首だけを突っ込んで聞くのだから良く聞こえる。確かに壁を引っ掻いて崩しているのだ。これで見ると、一度は物音に驚いて止(や)めたけれど、、その後別に危険らしいことが無いので、又安心して取り掛かったものと見える。

 何の道具でやっているのか、兎に角余ほど進歩していると見え、時々槌(つち)で叩(たた)くような音もする。こっちの仕事はまるでままごとの様なものだから、向こうへ聞こえるはずは無いが、それにしても、早晩に穴と穴とが出くわすときがあるだろう。これを思うと自分でも不思議なほど気が勇んで、ほとんど疲れるということを知らなかった。

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