巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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gankutu33

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

三十三、穴の向こうと此方とで

 穴の向こうとこちらとで、鉄板を隔(へだて)ての話は、勿論顔も見えない。その人に触れてみることも出来ない。闇の中での話よりもっとはかないのだ。
 向こうも囚人には決まっているが、どの様な人だろう。自分と同じ様に、鉄板に突き当たって、絶望しているのだろうか。イヤ、その声と話し方の落ち着いている様子を見ると、少しも絶望はしていないようだと、色々な想像が雨あられのように念頭に起こってくる。

 けれど、何しろ有り難い。何年の間だか、牢番という生きた壁に向かってのほか、言葉を交わしたことが無い身が、兎に角、似かよった境遇の人と語らうのだ。真に友太郎は渇(かっ)した人が甘泉に出会った思いである。

 相手も多分同じ思いだろうか。「お前はどれ位長くこの牢に入っている。」
 友;「千八百十五年の二月二十八日から。」
 相手;「何の罪で」
 友太郎;「何の罪も犯さないのに」
 相手;「イヤ、何の罪と疑われて」
 友;「ナポレオンが島から帰るのを助けたという嫌疑を受けて。」

 相手はひどく驚いたらしい。「何だと、ナポレオンが島から帰る。では最早や、彼は帝位から落ちでもしたのか。」
 友太郎;「千八百十四年にホンテンブローで捕らわれて、エルバ島に流されたのです。ですが、それを知らないとは、貴方は何時からこの牢にいるのです。」

 相手は問うことは好むけれど、答えることは好まないらしい。これで見ると、友太郎のような何の隔ても秘密も無いうち解けた人間とは違い、思慮綿密で、喜びや悲しみのために心の度を外すようなことの無い、一種の英雄ではないだろうか。その声にも言葉にも何となく、自然に尊敬の意を生じるような重みがある。

 「コノ俺か、俺は千八百十一年からここにいるのだ。」さては自分より四年も前から捕らわれているのだ。どうしてその長い年月を耐えることが出来たのだろうと、怪しむと同時に友太郎は恐れ戦(おのの)いた。世には我よりもそれ以上の苦しみを受けている人もいる。牢を破ろうとするのは当たり前だ。

 相手は何事か考えて居ると見え、しばらく無言であったが、「もう穴を掘るのは止めにするが良い。」
 さてはこの人は、私を見捨てるつもりかも知れない。それとも私を疑うのか。

 友太郎;「エ、エ」
 相手;「ただ聞きたいのは、お前が掘って来た穴は地面からどれ位高い。」
 友太郎;「少しも高くは有りません。土牢の床と同じ高さです。」 相手;「どの様にして穴の入り口を隠してある。」
 友太郎;「寝台をその入り口に当てて」
 相手;「時々寝台を検査される心配は無いのか。」

 この問いで見ると確かにこの人は友太郎の不注意から事が発見されはしないかと心配しているのだ。」
 友太郎;「私が入牢してからは一回もその様なことは有りません。」
 相手;「お前の室の前はどの様なところか。」
 友太郎;「石畳の廊下です。」
 相手;「その廊下は何処に出られる。」
 友太郎;「役所の庭に出るのです。」

 相手は絶望と聞こえる声で、ただ一言、「馬鹿め」と叫んだ。
これは友太郎を叱るのでは勿論ない。自分で自分を叱るのだろう。
 友太郎;「何事です。」

 相手;「測量が間違った。出発点で極些細(ごくささい)な違いがここに来て、取り返しの付かない食い違いとなった。折角この穴を掘って、同じ土牢の中に出るとは。エエ、運の尽きだ。運の尽きだ。七年来の苦心経営が全く水の泡と成った。」

 いかにも悔しそうである。さてはこの人、七年も穴を掘っていたのかも知れない。それではきっと遠い部屋から、はるばるここまで掘って来たのに違いない。その挙句にその穴が、自分の室と同じような土牢に出ると分かっては、成る程残念なことだろう。牢を出ようとの計画がかえって牢に入る結果となるのである。その人が歯を噛みしめて悔しがる様子が何だか目に見える様な気がする。

 友太郎;「貴方は何処にこの穴を掘り抜くつもりでしたか。」
 相手;「勿論、牢の外によ。初めに二つ案を立てたが、こっちのほうが確かだろうと見込んだのが、間違いだった。もう一つの案に従い掘り直す以外は無い。アア、又7年間かかるのか。どうか、その間、この身の健康が続けば好いが。」

 何たる強情な決心だろう。七年かかって掘った穴を捨てて、更にこれから七年かかって別に掘り直す積もりでいるのだ。友太郎はこれほど驚いたことは無い。更に七年、更に七年、この様な気の長い人が人間世界に有るだろうか。

 と言って到底出る見込みの無いところだから、七年が、八年かかっても、成る程掘り直すほかは無いのかもしれない。こう思うともう、勇気も決心もくじけてしまった。
 友太郎;「牢の外のどの様な所に掘り抜くのですか。」
 相手;「要塞の壁、即ち海の岸にある石垣に掘り抜くのさ。」

 益々恐るべき驚くべき決心である。
 友太郎;「海の岸に掘り抜けば、海に落ちるだけですが。」
 相手;「海より外に、逃げ道があると思うか。」
 成る程、海に出る以外に、逃げ出る道はない。他のところに堀抜けば、再び捕らえられるだけだ。

 友太郎;「でも、海に出てどうしますか。」
 相手;「近辺の島に泳ぎ着くのさ。」
 泳ぎにかけては魚にも負けないほどの水夫の身も、この勇ましい決心には敬服しないわけには行かない。

 「貴方はそれほど泳げますか。」
 相手;「間違い場溺れるまでさ。土牢よりは海の中が寝心地が好いだろう。」
 いかにも一死を賭しての仕事である。
 「賛成です、賛成です。」と友太郎は大声で叫んだ。

 けれど、先方は賛成を請うつもりは無いと見える。成る程、人の賛成を当てにするようでは、この様な牢破りは遂行できるものではない。

 相手;「お前はこれ切りで穴を掘るのをやめてしまわなければならないよ。悟られないように穴を生め、後で俺から何とか連絡があるまで、静かに控えているがよい。」
 
 言葉はほとんど命令である。いよいよこの身をこのままに捨ててしまうつもりらしい。
 友太郎;「それにしても貴方はどなたですか。それだけは私に聞かせてください。」
 相手;「俺か、俺はそうさ」と言って少し言いよどみ、「二十七号の客人だよ。」

 二十七号、これぞこれ、典獄《監獄所長》からも牢番からも狂人と思われている、梁谷法師である。友太郎はそうとまでは知らないけれど、兎も角二十七号と言えば三十四号の我が部屋とは余ほど離れていなければ成らない。その距離をここまで地の底を掘って来たとすれば、一人の力ではいかにも7年は掛かっただろうと、ただ感心が深くなるばかりである。

 それにつけても情けないのは、なぜこの人が私を信じてくれないのだろう。名を明かすことをさえ避け、私を見捨てる心に見えるとは、何とかして、思い直させる工夫は無いだろうかと、ほとんど情けないような気がした。

第三十三回終わり
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