巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

gankutu34

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

三十四、その穴から頭を

 少しの間でさえ、友達と別れるのが情けなく思うのが、人の常だ、まして友太郎は、土牢の底に何年もいて、初めて言葉を交じわした人に、早やこれを切り捨てられるかと思えば、恨みに思わずにはいられない。

 この人が七年もかかって、二十七号の部屋からこの三十四号の部屋の底まで穴を掘って来た苦心と、その穴の測量違いと言うことを知って、まだこの上に七年かけても掘り直すという勇気とは、確かにわが身の師とも、父とも仰(あお)ぐに足りる人だ。

 私に自殺の心を思い留まらせたのもこの人。私に壁の底を二尺(60cm)でも、三尺(90cm)でも堀る勇気を起こさせたのも矢張りこの人、今この人に見捨てられるのは、自分の生涯をかき消すのにも等しいのだ。

 「貴方は私を疑うのですか。」と彼は叫んだ。相手は当惑したように、苦く笑っている様子だ。何だか笑い声が聞こえてくるように思われる。友太郎は一層声を切にして、

 「私は正直な男です。決して貴方の企てを牢番に悟らせるようなことはしません。どうか、手下に加えてください。もし、このまま見捨てられたら、死んでしまう以外に有りません。どうか私を死なさないようにーーー」

 相手;「俺の顔さえ見ずに、俺を力にするとはおかしいじゃないか。アア、お前は未だ年の行かない、そうだ、人を疑う心さえない若者だと見えるな。声も何だか若そうだ。一体いくつになるのだ。」

 友太郎;「もう幾つになりましたか。長い間月日の記録を止めましたから、知りませんが、千八百十五年に捕らわれたときは十九歳でした。」
 相手;「フム、それでは今二十六歳になっているのだ。」

 十九歳から二十六歳、実に人生の血気の盛りと言っても好い。その間を土牢の底に生き埋めにされていたとすれば、ただこれだけで、誰だってその惨(むご)たらしさを感じない人はいない。アア、それでは気の毒だ。」との声が相手の口から漏れた。

 そうして、引き続いて、「十九の歳に捕らわれて二十六歳まで世間を見ずか。それでは未だ浮世の悪い風にそう浸みてはいないはずだから、正直だろう。」
 友太郎;「決して貴方のためにならないような事はしませんから。」

 相手:「アア、お前は見も知らない俺に泣きついて、よい事をしたよ。俺は初めから、加担者を得るつもりは無いのだから、勿論お前を捨てて置くところだった。けれど、歳を聞いてみると気の毒だ。出来るものなら何とかしよう。マア、気長に待っているがよい。」

 友太郎;「気長と言っても、何時まで待ちますか。」
 相手;「俺がじっくりと考えた上で、合図するよ。」
 じっくりと考えた上で、もしも見捨てるという方へ心が翻(ひるがえ)られては大変だ。

 友太郎;「どうか、貴方が私の部屋に来るか、そうで無ければ私が貴方の部屋に参りましょう。一緒に逃げることが出来ればこれ以上のことは有りませんが。たとえ、出来なくても、互いに愛する人の話でもしましょう。私は話をせずにいることがもう我慢が出来ません。貴方も、きっと人に話したいような懐かしい人がいるでしょう。」

 相手は又笑った。「お前は子供のようなことを言っている。俺にはその様な者は何にも無い。全くこの世の独り者だ。」
 友太郎;「それならなお更私を愛してください。貴方が若ければ私は兄と思い、年取っていれば父と思って敬います。私には父がありますけれど、今まで生きていられますやら、それに又、妻と決まった女もありましたが、今まで私のことを思っていてくれますことか。それも分からず、今のところで、貴方のほかに愛する人は無いのも同じ事です。」

 相手:「お前のように、人懐(なつ)っこい男は初めてだよ。中々面白い。兎に角、俺の合図を待っておいで。」
 友太郎:「合図は何時ですか。先ほども問いましたが。」
 相手:「明日にも」

 この一語を残して相手は去ったようだ。友太郎はしばらく耳を澄ました後で、穴を出て、その入り口を何時もの通り寝台で隠し、「明日にも」との一語を口の中で繰り返して、明日を待った。明日になっていよいよ会えるならば、せめてどの様な人だろう、言葉の様子では確かに英雄豪傑というものに似ているらしい。

 恋人が約束を待つのもこれほど心が騒ぎはしない。真に一日の経つのを待ちかねたが、翌朝食事が済むと間もなくである。穴の奥くから地を掘るような音が聞こえた。これが確かに合図であると、直ぐにその入り口に蓋をしてあるある石を取り除き、中に体を入れて見ると、掘っているのは多分鉄板の向こうだろうと思っていたのに、そうではない、自分の足の下である。アア、鉄板を避けて下から掘って来るのだ。

 考えて見ると、この土牢は昔武器を入れていた穴倉ででもあるのだろうか、地の底に掘り込んで作ったもので、前は番人の行き交う廊下になっているけれど、左右と後ろの三方は天然の大地である。大地に鉄の板のあるのは異様だけれど、土の崩れるのを防ぐために、この様にして塗り固めたものらしい。

 それだから隣室までの壁の厚さが何尺あるのかも分からず、今我が足の下を掘っている相手は、後ろの方から斜めにここに掘って来て、今まで何処の部屋にも出なかったのだろう。牢番の足音で考えても、廊下が様々に曲がっている様子だから、二十七号の部屋はこの部屋から後ろの方角に当たり、遠く背中合わせになっていると見える。

 この様に思ううち、自分のしゃがんでいる足の下が揺れるように感じた。友太郎は身を退いてその揺れたところをじっと眺めていると、たちまち、土が落ち込んで、人が出られるほどの、井戸のような穴が出来た。

 その穴から頭を、続いて肩と手とを出したのは、懐かしいかの相手である。友太郎はその肩に手を掛けて、ごぼう抜きにその人を抜き上げて、半ば引きずって自分の部屋に連れて行った。真に彼は、ただ嬉しさに夢中であるのだ。

第三十四回終わり
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