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巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
三十六、何(ど)の様な時節
法師梁谷、法師梁谷、さては牢番から気狂いの法師が居るように聞いたのは、この人の事だったのか、友太郎は思わず「では貴方があの牢番がーーー」まさか気違いとは言い無いので、「病気のように言っていた法師ですか。」
梁谷法師は少し笑って、「そうだ、少し気骨の或る人間が牢に入ると、大抵気違いと見なされる。お前も多分気違いと思われて、この土牢に入れられたのだろうが、成る程、他の凡々の囚人とは違っている。それだけが頼もしい。」
「頼もしい」との一語、これが始めての友太郎に対する同情らしい言葉である。友太郎は真に嬉しい。この様な大人物に露ほどでも頼もしく感じられたかと思えば、自分の位置が数段上った様な気がして、又も熱心に法師の手を握った。
法師;「お前の様な若い者を土牢の中に置くのは、いかにも可愛そうであるが、神のご意思だから服従する以外は無い。」
友太郎は勇気が満ちた様である。「イイエ、神のご意思は我々を救ってくださる事にあるのです。貴方と私とを引き合わせたのがその証拠です。」
「これから力を合わせて、二人でこの牢を出ることに働きましょう。貴方一人でさえ、ここまで穴を掘ったとすれば、若い私に同じことが出来ない筈は有りません。二人力を合わせれば、たとえ、海岸の方は岩で塞(ふさ)がっているにしても、岩の尽きる所まで掘ることも出来るでしょう。」
梁谷法師は無限の哀(あわ)れみを顔に浮かべて、「アア、年の若いというものは羨(うらや)ましいものだ。出来ないことまで出来るように勇んでいる。」
友太郎;「何故これが出来ません。」
梁谷;「地を掘って、その掘り出した土を何処に隠す。第一にその隠す場所さえないではないか。」
友太郎は初めて気が付いたようである。成る程、土を捨てるのに、限りも無く広い場所が無ければ限りも無く長い穴は力が有っても、掘ることは出来ない。
友太郎;「ですが、貴方は十五メートルも穴を掘ってその土を何処に捨てたのですか。」
自分が掘ったのはまだ1.5メートルにも足らないのだから、どぶに投げ込んでも事が済んだ。真に梁谷法師の方は、どの様にその土を処分したのだろう。
梁谷;「俺の居る部屋には入り口に昔の階段のようなものが残っていて、その下に隠れて古い井戸と見える大きな穴がある。俺は土牢に入って間もなく、その穴を見つけたから、初めて脱獄の心を起こした。」
「この古井戸が埋まるまで、外のところに穴を掘れば、必ず海岸かどこかに出られるだろうと、それでその古井戸のあるのを、俺に逃亡を告げたまう神の御心だと思い、その深さを測量した上で始めたのだが、今はその古井戸が俺の入れた土で塞(ふさ)がってしまった。もう三十センチの土を入れれば、必ず牢番に発見されてしまう。」
成る程、それではどうすることも出来ない。
友太郎がどうしてよいか分からずに考えている間に、梁谷法師は言葉を継ぎ、「この泥埠の要塞は海に突き出た高い岬で、三方がことごとく海だから、どっちへでも気長に掘って行けば、海に出られる。」
「そのうちでこっちに来るのが一番海に近いのだから、俺はもう遠からず、出られると思っていたが、この部屋の間近に来て岩に当たり、進むことが出来ないから、その岩を回る積もりで穴を曲げたけれど、今この窓から見た様子では、その岩が、これから先の海岸全体を包んでいる。どうにも進むことが出来ないのだ。」
友太郎;「でも貴方は先ほど、更に反対の方向に穴を掘り直すように仰(おっしゃ)いましたが。」
法師;「それはこの窓に上る前のことだ。上って見た所では、三方共に皆岩だよ。」
友太郎;「イイエ、それでも、反対の方向に穴を掘るのに何処に土を隠すつもりだったのですか。」
法師;「今まで掘ったこっちの穴に入れてしまう積もりだった。」
成る程、簡単な考えである。
「貴方の知恵なら、外にも工夫が有るでしょう。海岸の方ではなく、役所の庭のほうに掘り抜いたらどうですか。」
梁谷;「番兵に捕まるだけさ。」
友太郎;「イイエ、夜中ならば、番兵が一人か二人しか居ない時も有るでしょうから、貴方と私との力で番兵を叩き殺して逃げることが出来ます。」
梁谷法師はニコニコと友太郎の顔を見て、「俺は法師の身分だから、どの様な時でも自分のために人を殺すということは出来ない。人を殺すならば自分を殺す。」
短い言葉に厳(おごそか)な強い力がこもっている。友太郎はまた敬服して梁谷の顔を見上げた。
梁谷;「俺がもし人を殺すことを嫌だと思わなかったなら、俺はとうの昔に、イタリアの改革をし終えている。たとえ、事が破れて逮捕される時に会っても、捕吏を殺して逃げてしまう。」
「それが出来ずにこの牢に入ったとしても、地の下に穴を掘る必要は無い。不意に牢番を襲い、直ぐに殺してその着物を剥(は)ぎ取り、自分が牢番の姿になって、番兵の目をくらませて、ここを立ち去ることも出来るのだ。」
「成る程そうです。何で今まで私にその知恵が出なかったのでしょう。」と友太郎はほとんど残念な様に叫んだ。
梁谷;「ソレ、その様な知恵が出ないだけ、お前は善人に生まれているのだ。神の目から見た時には、人を殺して成功する者よりも、自分を殺して失敗する人間がどれ程優れているか知れない。」
友太郎は初めてこの様な高尚(こうしょう)な説教に接した。真にこの人の心は、どれ程広く、どれ程哀(あわれ)れみが深いのだろうと、理解が出来ないほどである。
「全くその様なものでしょうか。」
梁谷;「お前は感心して聞くだけ、いよいよ見込みのある男だ。先ず余り絶望せずに、何事も神にすがって、俺と一緒に、時が来るのを待つが好い。」
友太郎;「土牢の囚人にも時というものが来るでしょうか。」
梁谷;「来るか、来ないかは神のご意思だから人には分からない。一生涯待つ積もりで居るほかは無い。お前は昔からの名高い牢破りを知っているか。ビュホード公爵がビンシーン要塞から逃げたのも、ヂブ僧正がレビクの牢を逃れたのもラチウドがバスチューユ獄を抜け出すことが出来たのも、決して自分だけの力ではない。」
「熱心に神にすがって、そうして油断も無く事を実行する者には、ほとんど人間が信じることが出来ないような好機会を授けてくださる。お前や俺がいったんは失敗しても、長い生涯にはどの様な時節、どの様な機会が来るか分からない。」
長い生涯との一語は友太郎が身震いするほど恐ろしく思うところではあるが、又一方には、心の底に、今までに無い気丈夫なところが出来てきたように感じた。
「どうか、私を今から貴方の弟子にして、色々なことを教えてください。」
全くこの法師に降ってしまった。
第三十六回終わり
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