gankutu38
巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
三十八、誰を怨めば好いでしょう
法師は教えるうちに、友太郎が非常な天才で有る事を見出した。どうして水夫のような労働者に、天がこれ程の良智良能を与えて置いたか、納得が出来ないほどである。全く一を聞いて十も百をも知る力があるのだ。
初めに法師が二年掛かれば教えてしまうと言ったのは、実はそれより以上のことは到底理解出来ないだろうと思ったためである。所が実際教えて見ると、法師が2年で教える積もりだった事は半年も掛からずに覚えてしまい、更に益々学んで益々知り、深く理解する状態であるので、果ては歴史から神学から哲学のような高尚な学問をさえ、教えることになった。これが為に友太郎の人柄は、一年の後にはほとんど別人のようになり、水夫とは誰も信じないだろうと思われるほどになった。
しかし、幾ら教えても滾々(こんこん)として湧き出る泉のように尽きないこの法師の学識にも深く感心しなければならない。学識ばかりでなく、知恵の働き方の鋭いことは、友太郎が何を問うても、ほとんど、星を指すように的確に答える。決して誤って外れると言うことがない。
この人ならば、我が胸の中に、前から大きな疑問としてわだかまっている、我が入牢の詳しい理由も必ず解き明かすことが出来るだろうと、友太郎は思い、或るとき、話のついでに、「私は是非とも貴方のお考えをお聞きしたいことがあります。私の入牢は誰を怨めばよいのでしょう。」と問い質(ただ)した。
実に難しい問いである。自分にさえ誰の仕業か分からないものを、この法師が知るはずは無い。けれど、法師は驚かない。「私が問うだけのことを、全てお前が答えれば、出来るだけ考えてみよう。」と言い、これから友太郎が商船巴丸に乗り込み中のことから、婚礼の席で捕らわれるまでの事を、細かく問い始めた。
難しいとは言え、人心の展開を知り尽くす人に取っては、推量の及ばない事ではない。早くも法師の疑いは段倉と次郎の二人に落ちた。
段倉は出世の敵と友太郎狙うべき地位に居るし、次郎は恋の敵と友太郎を恨む身である。そうして、密告状の為に友太郎が捕まったことも、分かっている事なので、この二人の中でなくて、誰が密告状などを出すものか。
密告状の文句も、蛭峰検事補に見せられて、何度も読み返し、その後も心の中で、絶え間なく繰り返したため、まだ友太郎の記憶に鮮やかに存している。イヤ、実際友太郎は、死ぬときまでこの文句を忘れないだろう。
ほとんど、実物を読み聞かすように、この文句を法師の前で述べたので、法師はこれによって、段倉以外に友太郎のこの様な秘密を知る者が居ない事などを考え、更に段倉と次郎が力を合わせたと考えられる形跡は無かったかと質問した。
この問いに会って初めて友太郎は、かの酒店で段倉と次郎と毛太郎次と三人、酒を飲んでいた様子などを思い合わせて、ほとんど目が覚めた様な気がした。
そうして、その時の3人の有様から、又日頃の三人の行動など自分が知っている限りの事を繰り返すと、法師は直ぐに断言し、
では、必ず文筆の得意な段倉が考えだして、次郎と言う奴に教えたのだ。毛太郎次一人が非常に酔っていたのは、必ずその事を悟られないようにわざと酒を勧めて酔わせたのだ。
なるほど、そうである。それにしても私が裁判の判決も受けずに入牢したのは何のためだろう。これは流石の法師も余ほど頭を悩ました様子であったが、徐々に蛭峰検事補の友太郎に対する取調べの様子を聞き、
「フム、肝心の密書を、お前のためだと言って、焼いてしまうとは、ハテナ、検事にあるまじき事をする。何と言ってもこの検事補が怪しいなァ。」
これだけは友太郎は賛成できない。「エ、この検事補が、イイエ、初めから終わりまで私に同情を寄せてくれたのは、この検事補一人です。」
法師;「サ、その同情を寄せるのが怪しい。検事補と言う職は、被告に同情を寄せるべきものではない。同情の底に、深い企みを隠していたとしか見えないが。ハテな。」と言って又しばらく考えて、
「成る程、お前に手紙を焼いて見せてか、第一にこの行為が怪しい。被告の眼前で、その様な事をするとは、深くお前の胸に有り難いという感じを起こさせる手段だな。そうして、密書の宛名を決して他言しないように誓わせた。それでは、その宛名の人を保護する計略かもしれない。しかし、宛名は何とあった。」
友太郎;「野々内」
法師;「フム、野々内、ヘロン街の革命党では無いだろうな。昔随分名高かった。」
友太郎;「その人です。その人です。確かにヘロン街です。」
法師;「オオ、野々内、俺とは何回も文通した男だ。政治上の意見が同じため、互いに国外の同士とあがめていた。彼を保護する検事補と言えば、もしやーーーイヤ、その検事補の名前は何と言う。」
友太郎;「蛭峰検事補というのです。」
蛭峰と聞くなり、法師は顔に怒りの色を浮かべ、「その蛭峰が、友太郎、お前を牢に入れた奴だ。」
友太郎;「その様な事は有りません。もし私をこの後救い出してくれる人が有るとすれば、必ずその人だろうと思っています。」
法師;「愚か、愚か、野々内の名が分かれば、そ奴は自分が免職されるか、そうでなくても、出世の道が立たれるので、その手紙をも焼き、お前の生涯も揉(も)みつぶしたのだ。友太郎、蛭峰というのは確かに野々内の息子だぞ。」
友太郎は頭の上に百雷が落ちかかったような気がした。「エ、蛭峰が」
法師;「そうだ、蛭峰と言うのは野々内の母方の姓で、昔はかなりの名家で有ったが、数十年前にその家が絶えてしまった。公に蛭峰と言う姓を継ぐことが出来るのは、野々内の息子以外はない。多分野々内と言う名高い革命家の姓では、出世の道が頼りないので、自分の血筋に名家の姓が伝わっているのを幸いに、公にそれを名乗ることにしたのだろう。」
「その様な人なら、検事補として大切な証拠書類を焼くような事もするだろう。書類は焼いても、団友太郎と言う生きた証拠が残っているから、それをこの通り土牢の底に埋めてしまったのだ。」
初めて納得が行った友太郎は余りの事でそこにじっとしている事は出来なかった。全く顔色を変えて自分の室に退いたが、夜に入っても、翌朝になっても、法師のところに顔を出さない。法師は少し気になって昼過ぎに友太郎の室に行って見ると、彼は悔しそうに頭の毛をかきむしり、寝台の真ん中に正座して、窓に注いだ眼だけを光らせていた。
第三十八回終わり
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