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巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2010. 12. 19
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
四、お露と次郎
毛太郎次が段倉に連れられて入った酒店はスペイン村の直ぐ傍(そば)である。その村に行った友太郎の様子を伺(うかが)うには丁度良い所なのだ。
そもそもスペイン村というのはモルジョン岬の下にある漁師村で、友太郎の父の住居とつい四、五町(四,五キロ)しか離れて居ないうえに、ズーっと家続きになっている。
今から六,七百年も前にスペインの漁師が漁のために引き移って来たそうで、今でもその子孫が一廓(かく)をなして、なるたけ先祖の風を失わないように守っている。
今しもこの村のとある家へ、いや、家ではない、むしろ小屋だ。屋根も傾いて月も漏るかと思われるほどの中に、辺りに不似合いなほど美しい娘が、所在無げに毛糸を編んでいる。昔からこの村には、スペイン風の非常な美人がどうかすると生まれるということだから、これもその一例だろう。
年は十七か八、丸みのある豊かな顔に、心の波動が一々映って現れる鏡のような清い眼、それに所謂(いわゆる)丹花《赤い花》の唇は、真に絵にも無いほどの愛らしさである。これが友太郎の許婚と言うお露なのだ。その傍に、鳩の傍の鷹とでも言うべき見栄えで、厳かに控えている一人の男、年は二十二くらいだろう。
漁師村の子と言うことは顔の黒さに分かっているが、腰に短い剣をさしているのは、徴兵に出た印と見える。骨組みも逞(たくま)しくて、眼は妙に陰気である。顔全体に少しも晴れやかなところが無い。
この男、先ほどからただ、黙ってお露の姿ばかり眺めている。一般的に言えばお露のような弱々しい女は、この逞しい男に、ほとんど手玉に取られるように、何から何までこの男の意のままに扱われそうに見えるけれど、ところが全く反対で逞しい方が弱々しい方の奴隷のようになっている。
頑丈な骨組み全体がまるでとろけて、お露の目の中に入ってしまったように、お露が目を上げればこの男も目を上げる、お露が立てば立ち、お露が行けば行く、柔よく剛を制すとはこれなんだろう、言わばお露の一喜一憂に生きているのだ。
黙っていて早や、先ほどから二度か三度深いため息を漏らしたが、やがて耐えられなくなったと見え、
「コレ、お露」
と呼んだ。声まで顔に似て、但し、異様に甲高い声では有るが、陰気である。このような声の男が、えてして思いつめてとんでもない事を仕出かすのだ。お露は
「何だえ、次郎さん」
と初めて顔を上げた。
次郎;「だんだん気候も良くなって、大分世間では婚礼もあるようだが、お前は俺と何時式を挙げてくれる。」
お露は「又か」と言うようにうるさそうに直ぐ俯いて、又編み物に取り掛かった。
次郎;「コレ、去年から、イヤ、そのなお前、おれが兵隊に行く前から、お前にこう言って催促するのはもう百回にもなるよ、」
お露は見向きもしない。
「私が嫌ですと言う返事も丁度その数と同じだ。」
次郎;「サ、その嫌ですが分からないじゃないか。俺とお前とは従兄妹同士だよ。」
露;「だから従兄妹同士のように仲良く付き合っているではないか。」
次郎;「従兄妹同士だけではいけない。そのまだ上で無ければ」
露;「それより上のことは出来ませんよ、」
次郎;「お前と俺の縁組はお前のおっかさんだって承知していた。おっかさんが死ぬ前にーーー」
露;「嘘です。嘘です。おっかさんが亡くなる時、最後まで介抱してくれたのは友さんです。おっかさんもそう言いました。この子がもっと年が行っていれば友さんと婚礼させて死ねるけれど、ハイ、そうすればどれほど安心できるか知れないと、私の聞いているところで言いました。」
半分は涙声である。言い終わって編み物の手を止めて、袖口を顔に当てた。そうして又、
「お前はそのときは兵隊に出て、ここには居なかったではないか。」
次郎;「俺の方はそれよりもっと前だよ、子供で遊んでいるころから、おっかさんはその積りだった。」
露;「何が何でも、もう友さんとの約束が出来ているから仕方がありません。」
友さんという名に、次郎の顔は、黒いのが火の燃えるようになった。恐ろしい嫉妬の念が腹の底から湧いて出たのだ。
「では友太郎という赤の他人に、お前は従兄弟を見替えるのだな。」
露;「見替えると言っても従兄弟は従兄弟、夫は夫では有りませんか。」
次郎;「ナニ、夫、婚礼もしないのに何が夫だ。」
露;「今度帰ってくれば直ぐに婚礼をする約束です。」
次郎;「もし帰らなければ」
露;「帰る時まで待っています。」
次郎は頓死したように静まった。そうして両腕をこまねいて(組んで、)ほとんど顔をその中に埋めた。全くお露の心の動かし難いのに絶望したのだ。その絶望の様子が、何だかいつもとは違って物凄いほどに見えるので、お露は気味が悪い様な気がして、
「次郎さん、次郎さん、従兄弟同士に生まれて何時までも従兄弟同士だから好いではありませんか。婚礼したとて、私がただ一人の従兄弟を忘れるものではなし、今までお前に受けた恩は何時までも覚えていますもの。」
このようなやさしい言葉をお露の口から聞いたのは初めてである。一時だけれど、嬉しさが次郎の胸の底まで融けて入った。
次郎は酔った人の様である。ふらふらと立ち上がって両手を広げ、よろめくようにお露の前に寄り、
「お露、お露、もう一度思い直してくれることは出来ないか。友さんも友さんだろうが、次郎を可哀想だとは思わないか。たった一人の従兄弟であるのに」
お露は慌てて、
「アレ、またあのようなことを言う。生涯従兄弟と思っているから好いではありませんか。男の癖に、しつこいのは、私は嫌いですよ。」
折角芽を吹きかけた望みを又一言でへし折られた。次郎は前よりも又凄く顔色を変えてしまって、
「では、お露、友太郎が死ななけれねば、お前は俺の妻にならないのだな。」
実に最後の一言である。その意味は明らかだ。お露も立ち上がった。
「友さんが死ねば私も直ぐに死にますよ。友さんと決闘でもするのなら、私をこの世に無い者とするつもりで決闘をおし。」
実にお露も一通りの剣幕ではない。確かに友太郎より後には生き延びない決心が見えている、次郎は一足、後ろにたじろいだ。そうして物凄く笑って
「ホホ、何に俺が友太郎を殺すものか。この間から大分海が荒いから、もしや帰らぬ人になったのでは無いだろうかと思っただけさ。」
お露;「縁起でもない、嘘にもそんなことを言って貰いたくない。」
声の下から友太郎がまだ死なない証拠が出た。窓の外から
「お露、お露」
さも懐かしそうに呼んで入ってくる。聞こえているのが、団少年友太郎の声である。
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