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巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2011. 1.24
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
四十、薬を薬を
番兵の足の下に落とし穴を掘るとは、これが実に最後の工夫であろう。このほかには脱牢の手段は決してない。
二人は直ぐにその夜から着手した。出来上がるまでおよそ一年余り掛かる予定である。二人で一年余り掛かれば、梁谷法師が一人で5年掛かった穴の三分の二以上も掘れるだろう。
穴は元の穴の中ほどから、横の方へ枝の様に掘って行くのだ。掘った土は今までの穴の広いところに積み上げ、又両人の部屋の壁から少しずつ投げ捨て、更にその上、乾かす事ができる分は乾かして粉にし、夜風に吹き飛ばさせるのだ。その辛苦と気に長さは中々話になったものではない。
けれど、ついに成功した。実に人の辛抱と言うものは大したものだ。もっとも、これ以外に、外に出られる見込みが無ければ、全く必死の決心をもって掛かるのだから無理は無い。早い話が、蟻でさえ、かなり大きな穴を一日か二日の間に掘るではないか。
二人は十八か月ほどかかったのだ。ただし、幸いな事には、穴が廊下の下に近づくに連れ、土が幾らかゆるくなって、おまけに中から古い木材だの釘だの、鉄板の屑などが出た。この辺は昔何かのために一度掘り返した事がある所なのだ。
勿論材木は朽ちているし、鉄の類は腐食していて、元が何か分からないほどだが、その中に少し使えそうな物もある。それらから気の永い梁谷法師の手によって、大鑿(のみ)が二丁出来た。縄梯子の端に付ける鉤(かぎ)なども頑丈なものが出来た。兎も角、余程の便宜となって、後半に成る程、仕事が速く運んだ。
いよいよ計画が図に当たった。穴の底に入って見ると、頭の上に番兵の足音が聞こえるのだ。穴の天井のようになっている敷石一枚を下から外せば、番兵は落ち込むのだ。何時でも、落ち込ませることが出来るように、下から、木や石を積み上げて、支えてある。支えを外せば直ぐに目的が達するのだ。
こうなると実に嬉しい。二人はただ風か雨かの闇の夜を待つばかりだ。イヤ、これも待つには及ばない。出来上がった時が、丁度そのような闇の夜だった。これも天の助けであろうと二人は勇気が満々ちて、工事の疲れも感じなかった。
別に荷物を用意する必要も無いのだから、直ぐに今夜実行すると言うことになり、先ず友太郎が先に落とし穴の底に行き、轟く胸を押し鎮(しず)めながら、支えの積み柱に手をかけ、番兵の足がこの落とし穴の天井に乗るのを待っていた。
梁谷法師の方は、友太郎の部屋に置いてあるかの縄梯子を持って来るために、ここを去ったが、そのうちに友太郎の頭の上には番兵んの足音が、遠くから静々と聞こえて来る。もう三分と経たないうちに、番兵は穴の上に立つ事になるのだ。
実に危機一髪とはこの時だろう。この危機一髪の時に当たり、友太郎の部屋の方から非常な苦痛に叫ぶ法師の声が聞こえた。実に一種の絶叫である。
何のためかは知らないけれど、ただ事ではない。法師の身に何か異変があったのかもしれないと、友太郎は驚いて直ぐに自分の部屋に引き返した。見ると、法師が縄梯子を持ったままで、穴の入り口に倒れている。
真っ暗な中ではあるが、法師の発明した獣脂のランプが少し燃え残っている。
それに友太郎は早や何年か暗い土牢に慣れた上、特に更に暗い穴の中で、夜昼無しに仕事をしたため、たとえ、真っ暗闇の中であっても、物が見える程になっている。
全くふくろうの目や猫の目のように、少しの光で物を見る作用が非常に発達下のだ。これは、長く暗い所でだけ働く人に聞けば分かることである。鉱山の穴の中にとざされた人でも、二週間経つと薄々と物の色を見分けると言う事である。
「如何(どう)しました、貴方は」と、言いながら、友太郎は法師を抱き上げた、法師は顔に少しの血色も無い。全くあの世の人かとも思われる。そうして、非常に苦しそうな声で、
「イヤ、大変な時に大変な事になった。友太郎、俺はもうだめだ。持病の発作が出たのだ。」
友太郎;「エ、持病とは、。」
法師;「オオ、一種のテンカンのような病気だ。これが俺の血筋にあるのだ。父も祖父もこれで死に、俺も牢に入る一年前にこの発作に襲われたが、その時は名医の力で回復した。その医者の言葉では、体格が確かだから、事によると二度目までは助かるかもしれないが、三度目は決して助からないと言われた。今がその二度目だが、最初よりは余程激しい。どうも助かりそうでない。」
この場合に、この病気、そもそも何たる不幸だろう。たった今まで助けの手を差し伸べているように思われた天が、今は見放しになったのだろうか。
友太郎;「その様な心細い事を仰ってはいけません。何が何でも私が助けてあげます。」
法師;「オオ、様言ってくれた。兎も角、俺の部屋まで抱いて行ってくれ。部屋には薬があるから。」
薬まで持っているとは流石に用心深い人である。けれど、友太郎は感心などはしていられない。直ぐに穴の中を引きずるようにして、法師の室に連れて行き、その寝台に上そうとすると、法師は益々苦しい声で、
「待て、待て、薬が寝台の脚の、彫りくぼめた穴に入っている、ビンのままだから、そのビンを取り出してくれ。寝台をひっくり返してだよ。」
友太郎は手早くその言葉に従い、寝台の脚の裏を調べると、成る程、木のふたが有って、これを抜くと、箱のようにくり抜いた中に、赤い水薬の入った小瓶が有る。
「これですか。」
法師;「オオ、それだ、それだ。俺の最初の発病を直してくれた、名医カバニス氏が、次の用意にと呉れたのだ。人に飲ませて貰うほかには、飲む方法の無い薬だ。」
「待て、待て、コレ友太郎、今に俺の体にひどい痙攣が起こり、その時に、俺は自分でも防ぎきれないほどの非常な叫び声を上げるのに決まっているから、どうか、その時には毛布で俺の口を塞ぎ、更にその上からお前の体を押し付けて、その声が漏れないようにしてくれ。もし、洩(も)れたなら牢番の居るところまで聞こえ、どの様なことになるか知れない。」
友太郎;「分かりました。先ず薬を、薬を」
法師;「イヤ、未だ飲めない。痙攣とともに俺は歯を噛み切り、その後は全く死人と同様に体もこわばり、勿論脈も呼吸も無くなってしまうのだから、その時まで待ってくれ。」
「そうして、全く死人の通りに成ったのを見届け、その上であの鑿をもって、歯を練(こじ)り開け、この薬を八滴から十滴俺の口に垂らしてくれ。そうすれば或いは生きるかもしれない。決して慌てて、俺の体に、脈のあるうちにこの薬を飲ませてはいけません。返って害を及ぼすものだから。」
言う中に早や全身に強い強い痙攣(けいれん)が始まった。そうして全く苦痛のために搾り出されるように耳をもつんざくほどの叫び声を発した。友太郎は今受けた指図通り、早くも毛布をその口に当てて、更に自分の体でその上から声が漏れないように圧迫した。
第四十回終わり
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