巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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gankutu41

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 1.25

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

四十一、恩を返す道

 実に法師の病気は恐ろしいほど激しい発作であった。その叫び声は友太郎が圧迫して牢の外に聞こえないようにしたけれど、引き続いて起こった全身の痙攣は友太郎の力では如何する事もできなかった。

 噛み締めた歯の間から泡を吹いた。目は張り裂けるかと思われるほど広がって、両の目の玉も抜け出しそうに見えた。
 顔は一度紫色になり、又青くなり、手も足もイヤ体中が総て引き絞られるように震えていたが、ややしばらくして鎮(しず)まった。鎮まるとともに死人の様になってしまった。

 脈も無い。呼吸も無い。その上体も冷えて、なにやら固まりかけている様子だ。友太郎は恐ろしくてたまらなかったが、今が法師の指図を実行する時だと思い、先ず鑿(のみ)を取っ手、噛み切っている歯と歯の間をこじ開け、ビンの薬を指図の通りに十滴だけ垂らし込んだ。

 これで生き返るかもしれない。或いは薬の飲ませ方が遅すぎはしなかったか、いや、早すぎはしなかったかと、色々な心配に胸を苦しめ、ただ法師の顔だけを見つめているうちに、ほとんど夜が明ける頃になって、極少しだけれど、青い顔に血色がかえって来るように見えた。

 引き続いて呼吸も真に虫の息ほどだが通い始めた。有り難い。薬の効能があったのだ。この分ならば遠からず全くこの世の人となるだろうと思う中、早や何時も牢番が見回りに来る時間となった。

 残念だけれど、しばらくここを離れなければ成らない。早や土牢の大戸を開く様な音が聞こえる。全く去るに忍びなかったが、友太郎は地の下の穴にもぐり込み、中から手を出して蓋(ふた)の石を引き込んで、なるだけ出入り口が分からないようにして置いて自分の室に帰った。

 本当に危ういところだった。帰ると間もなく牢番が戸口を覗き込み、「フム、別に以上は無いな。では直ぐに食事を持って来てやるワ」と言って帰った。
 食事中の友太郎の心配はたとえるものも無い。早く法師の室に行って様子を見たい。

 彼が再び法師の室に忍んで行ったのは、二時間の後である。法師は早全く生気を取り戻し、非常に疲れた様子では有るが、寝台の上で、首だけを上げ、「オオ、友太郎か、お前の正直、忠実にはただ感謝のほかはない。我が子、我が子」と叫んだ。

 今まで友太郎はこの法師を、「父よ」、「師よ」と呼んだ事は何度あったか知れないが、法師は愚かな人情には感動しない気質で、一度も「我が子」と言うような親しむ言葉は発しなかった。今度ばかりは余程感動したと見える。

 友太郎;「意外に早くお直りなさって、こんな嬉しい事は有りません。」
 法師;「俺はもう、お前がこの牢を出たとばかり思っていた。」
 友太郎;「何でその様なことを」
 法師;「イヤ、昨夜直ぐにも逃げ出せる様に準備が出来ていたのだから、きっと逃げたろうと思ったのさ。」
 友太郎は恨めしそうに怒り、「あなたはそれほど私を薄情だと思っていたのですか。」

 法師;「イヤ薄情ではない。俺を捨てて逃げて行くのが当たり前だよ。長年の苦労で、ようやく脱獄の道を開き、穴の中の支柱を一つ外しさえすれば、何もかも思う通りに行くこととなり、サアいよいよと言う間際に俺が病気に倒れたのだもの、俺に構ってなど居られるものか。俺は、今朝正気に返り、ひとりで相思った。アア、友太郎は夜前のうちに逃げ果たせたな、それにしても俺に薬だけは飲ませてくれたと見える。それだから俺はこの通り生き返ったのだ。薬を飲ませる間だけでも踏み止まったとは、実に珍しい親切な男だと、実は心で感謝していた。」

 友太郎;「師よ、師よ、貴方は情けない事を仰る。私は今朝牢番が来る時までこの部屋に居たのですが。」
 法師;「許してくれ、友太郎、お前は本当に、この世に二人と居ない高尚な心をもっている。それを世の中一般の不人情な人と同視したのは悪かった。悪かった。」

 法師の目には涙が満ちていた。
 「悪いも何も有りません。まあその様な事を仰有(おっしゃ)らずに、気を丈夫に持って、早く良くおなりください。その上で一緒に牢を出ますから。」
 法師は限りなく失望の調子で「それができない事になった。俺はこの前の発病の時は、正気に返ってただ全身がだるいのを感じただけだったが、今度は半身不随になった。右の手、右の足が少しも利(き)かない。」

 友太郎;「でもそれは」
 法師;「イヤ、直る事ではない。医師カバニス氏が予言した。たとえ第二の発作の時に、命だけは助かっても、体は必ず利かなくなると。」
 友太郎;「体が利かなければ私が背負って逃げて上げます。」

 少しも、躊躇も疑いもしない。
 法師;「背負うと言っても平地とは違い、外へ出れば海も泳いで逃げるのだ。半身不随の人を背負ってどうして泳ぐ事が出来るものか。イイヤ、それは物理的に分かっている。何と言っても出来ないことだ。お前は水夫だ。人並み以上に泳ぎに熟達していたとしても、一町(1キロメートル)と泳がないうちに溺れるに困っている。

 一番近い島でも五マイル(9.3キロメートル)はあるのだから。コレ、友太郎、俺は自分のためにお前を引き止めてはならない。今まで一緒に逃げようと言った約束は取り消すから、お前一人で逃げてくれ。

 イヤ、少しも俺を気の毒とは思うに及ばない。俺がいよいよと言う間際にこのような事になったのも、結局は神の御心だ。神がまだ俺を救っては下さらないのだ。俺は神の御心に逆らっては、何もしないのだから、コレ、どうかお前だけ一人で逃げる事に決めてくれ。

 真に他事もない頼みである。友太郎は断固として、「イヤ、私はその様な男ではありません。死んでも約束にしがみつきます。貴方が生きている間は、決して貴方を捨てて、一人逃げる様な卑劣な事はしません。」

 何という健気(けなげ)な心だろう。法師は感極まって泣いた。「我が子よ、天がお前の様な、人生に又とない正直者を俺に授けてくれたのだ。お前の正直に乗じて、それでは一緒に踏み止まってくれと言うのは忍びないけれど、俺はこの恩を返す道がある。ではお前の言葉に甘える。何俺はこの次の、第三回の発病には死ぬのだから、その時までここに居てくれ。」

 友太郎;「居ますとも、イヤ、第三回の発病は牢の外で会うように、貴方が少しでも良く成ったらきっと救い出して上げます。」
 法師;「兎も角、気遣わしいのはアノ落とし穴だ。アノまま置いては番兵が廊下を歩み、下に空洞のような響きがするため怪しんで調べる事になるかもしれない。お前、いよいよ俺と一緒に踏み止まるとすれば、一時でも、あの穴を埋めつぶして置かなければならない。」

 情けない事を言う。艱難辛苦でようやく掘り上げた穴を、又つぶさなければ成らないとは、しかし、いかにももっともな用心である。
 友太郎;「潰しましょう。私が一人で行って、そうです。アノ落とし穴になっている部分だけは、十時間もかかれば埋めきる事が出来ますから。」

 法師;「では気の毒だがそうしてくれ。アレが潰れないことには安心して居られない。その代わり友太郎、アレを潰し終わるまで俺のところには来るには及ばないから」

 友太郎は納得して退いたが、これより全くこの日一日とその夜一夜を穴埋めに掛かってしまった。埋めるのは掘るよりも簡単だ。一日一夜で潰し終わって、又翌日の朝、その事を知らせに梁谷法師の室に行き、「もう少しも、足音で怪しまれる恐れは有りません。」と言った。

 梁谷法師は徹頭徹尾友太郎の正直な事を見抜くことが出来て、「オオ、友太郎、きっと残念でもあろう。失望もしたろう。けれど悔やんでくれるな。俺はその代わり、そうだ、お前への恩返しに、何百万と数の知れない宝を半分お前に分けてやる。その宝のある所を、直ぐに今ここで教えてやる。」

 アア、宝、宝、この法師が発狂して宝のことを言うように、前から聞いてはいたが、発病の影響で又元の発狂に返ったかと、友太郎は非常に驚いた。

第四十一回終わり
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