gankutu51
巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
五十一、チブレン島
死人に代わって獄を出ると言うような大胆な考え友太郎に起こさせたのは、これが法師が良く言った天意ではないだろうか。或いは法師の霊がこの思い付きを与えてくれたのではないだろうか。
山の様な怒涛に揉まれながらも友太郎の心は、緩まずに神の助けを信じている。
自分の体を水底に沈まないようにだけ支えていれば、必ずどこかに流れ着いて助かる事になるだろう。ただこのように思って風雨とも波とも戦っていた。
その見込みは間違いが無かった。彼の力がほとんど尽きて、もうどうしようもなくなった時、彼はとある岩の上に打ち上げられた。この岩が即ち彼の目指していたチブレン島である。
体の疲れは一通りではないけれど、気が立っているから中々くじけない。直ぐに岩の高い所までよじ登り、闇の中に四方を眺めて方角を確かめると、プラニエルの灯台の光により、ここがチブレン島だと分かる。
目指す島には着いたけれど、さてこれから如何しよう。四方が暗黒な事よりも、自分の身の上の方が暗黒である。
雨はそれほどではないが風と波は益々激しい。更に雷鳴さえ加わった。兎に角夜が明けるまではと、岩のかぶさって陰となって居るような所を探して、ここに身を潜めたが、間もなく海のほうから人の悲鳴が聞こえるように感じた。
もとより、怒涛(どとう)の間からだから良くは聞き分けられないが、もしやと思い再び岩の高いところに登り、あちらこちらを闇にすかして見ていると、パッと閃く稲妻が海の表面をくまなく照らした。この光で分かったのはここから五、六百メートルの沖合いに一艘の漁船が波に巻かれてひっくり返り、今やあたかも二人か三人の乗組員が海底にさらい込まれるところである。前に聞こえた悲鳴の声はこの人々の叫び声であったのだ。
船をさえ砕くほどの波だから、その中に落ちた人が助かると言う事はとても出来ない。再び閃いた稲妻の光で見ると、海はただ山の様な波が重なり合って狂うばかりで、船も無ければ人も無い。全く沈み溺れてしまったのである。特に友太郎がこの岩に打ち上げられた時から見ると、波の荒れ方は何倍も強くなっている。沈んだ人たちはもうこの世の人では無いに違いない。
船に乗っていた人々は沈んで溺れてしまい、かえって袋に入れて錘(おもり)まで付けられて、そうして海底に沈められた人は助かる。実に不思議なものである。助かるのも人間の力ではなく、死ぬのも人間の力ではない。これが神の技でなくてなんであるか。
再び岩の陰に戻って友太郎は神に感謝した。そうしてしばらく身を落ち着けている間に、雨も風も次第に静まって、夜もようやく明けて来た。
天は昨夜の荒れにも似ず、青々と晴れ渡っている。あれだけの雲、あれだけの風雨がほんの数時間のうちにどこかに収まったのだろうかと怪しまれるほどだが、友太郎にとってはかえって不安である。日が出た後にもし泥埠の要塞から望遠鏡をもってこの島を見れば私がここに居る事まで分かるに決まっている。どうかその様な事が無いうちに、通り合わす船でもあれば好いが。
けれど波だけは、昨夜の余波でまだ荒れている。三度岩の上に上って四方を見渡しても、舟らしいものは見えない。どうしようもない。早や東の方の水平線が、日が出るように赤くなった。
もう泥埠の要塞で一切の役人が起きるのは間もないだろう。起きてもし牢番が私がいた土牢に朝飯を運んで行けば、既に私が逃げた事が分かる。昨夜私が崖の上から落とされた時、途中で我知らず驚き叫んだから、牢番等はその声を聞いて怪しみ、今朝は特に早く法師の室か、私の室を見直しているかも知れない。
囚人が逃げた場合には、据付(すえつけ)の大砲を放って要塞の中全体に警報を伝えると聞いているが、今にその警報が聞こえはしないか、今に何艘もの小舟が追っ手を乗せてこの島に押し寄せて来はしないかと、様々に気づかううち、彼方に見えるマルセイユの港口から、一艘の帆船が出た。
まだ波が荒いのに出て来るところを見ると、禁制品を取扱う密輸輸入者の舟でもあろうか、何にしても有り難い。どうか早く声の届く辺りまで来てくれればと、ひたすらその向く方向を注意して見ていると、幼い頃から水夫で育った友太郎の目には直ぐに分かる。
確かにレグホーン港の方に行く海路を取っているようだ。そうすればこの島からは、声の届かないほど遠いところを通るのだ。何とかこの舟を呼び寄せる方法は無いものだろうかと空しく辺りを見回すと、これも天の恵みだろうか、この島の一方の水際に何だか赤い物がある。これを取って目印にして、高く差し上げて打ち振ればと思い、直ぐに水際に行って拾い上げると、水夫のかぶる帽子である。たぶん、昨夜沈んで溺れた漁船の漕ぎ手がかぶっていたものだろう。
これを取って、岩の上に立ち、船がなるたけ近づいた時。打ち振り、救いを求める合図をすると、船はようやくにして気が付いたらしく、進路をこちらに振り向けて、次第次第に近づいた。けれど波は高く足場も悪い、船が直接にこの島に着くことが出来ないのは分かっている。
間近になったころを計り、友太郎は今拾った赤い帽子をかぶったまま、その船の所まで泳いで行った。高い波を掻き分けて進む手際が並大抵の水夫でない事が分かっている。そうして船の傍まで行くと船のほうから「偉い、偉い」と声をかけて励ましてくれ、綱を投げてこれにつかまらせ、あっさりと救い上げてくれた。
船長らしき一人は、友太郎の姿を見て「ヤ、何と言う水夫だ。髪ならば十年も手入れしたことも無いほど延びて、髭の長さは六寸(二十㎝)もあるとは。」友太郎はもっともらしく「昨夜のあれで、丁度ここに沈んだ漁船の船子です。使って下されば十分役に立ちますから。レグホーンまで乗せてください。」
船長;「丁度水夫を雇いたいところだから、腕次第では期限を決めて雇っても好いが、何だか気味の悪い顔付きだなア、第一この髪の毛は如何したのだ。」
友太郎;「これは何です。アノ、少し心願が有って、頭へ櫛や鋏を触れさせない事にしていましたが、それがようやく届きましたから、もう何時でも刈り込みます。」
言う折りしも泥埠要塞の方向に当たりそうな所から大砲の音が聞こえた。見れば監獄の屋根の辺に白い煙が一団になって立ち上っている。確かに友太郎の逃亡が分かったのだ。船長は鋭い眼で友太郎をジッと見つめ、「エ、泥埠要塞で大切な囚人が逃げたと言う警報だぜ、あそこを逃げる奴は大抵海に来るに決まっているぜ。」と疑う口調である。
第五十一回終わり
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