巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

六、幾らでも奥の手を

 
 勿論、この酒店に段倉が毛太郎次を連れて入っていたのは、ここで友太郎の様子をうかがう為であった。彼、段倉の心では、きっと友太郎の方が絶望して帰るだろうと思っていた。彼は先刻毛太郎次から、この頃お露の傍(そば)に次郎が付き切りで居ることを聞いたのだから、たぶん既にお露の心が次郎の方に移っていて、友太郎を振り捨てるだろうと思ったのだ。ところがあべこべに次郎の方が、一目見ても絶望と分かる程の有様で走って来たので、少し意外な気がした。

 彼は心の中で呟(つぶや)いた。「これで見ると、アノ友太郎には、確かに運が向いて来ているのだ。この俺がもし妨げないことには、うまうまと船長にもなってしまうワ」と、こう思うと彼は実に忌々(いまいま)しさに我慢が出来ない。「好し、いくら運だといっても、俺が邪魔をすればそうは行かない。」どのように邪魔をするつもりだか分からないけれど、後で思うと、実に段倉の力が運の力にも劣らなかった。

 彼、段倉の計略に富んだ胸には早や思案が浮んだ。次郎が絶望してきたのは、自分にとっては幸いである。こやつをうまく道具に使えば友太郎をどのような目にもあわせることが出来るのだ。彼が毛太郎次に力を合わせて無理に次郎をこの店に呼び込んだのは確かにこの為である。

 次郎は引き入れられたけれど、口も聞かない。ただ心中に燃える嫉妬と絶望に、首(こうべ)を垂れて考え込むだけである。
 けれど段倉が中々黙らせては置かない。「どうしたんだエ。次郎さん、お前は丸で恋人に振られたとでもいう様子じゃないか。私の見たところでは死ぬ気ででも居るように思われるが。」

 次郎はこの上も無く不機嫌にただ一言、「死んでしまうのだ。」一語漏らせば後は幾語でも引き出せる。あたかも糸口を取られた巻き糸のようなものである。「エ、死んでしまう。お前の年で、自分で死ぬ気を起こすとは並大抵な事ではない、な、毛太郎次、次郎さんはどうしたと言うのだろう。」

 毛太郎次;「お露が友太郎の方に寝返りを決めたのさ。」
 段倉;「では、矢張り恋故(ゆえ)の失望か。それにしては次郎さん、余り意気地が無さ過ぎるじゃないか。自分の女を人に取られ、それで黙ってその場を去るのか。私はスペイン村の人間にその様な意気地の無いのは一人も居ないと思っていた。」

 毒矢は確かに急所に当たった。次郎は、恨めしそうに顔を上げた。そうして、「ナニ、相手と決闘して、殺してしまうくらいのことは知っていますが。」
 段倉;「そうだろうとも、そうだろうとも、そうでなくては男でない。」
 次郎;「相手を殺せばお露が直ぐ死んでしまうと言いますからさ。」

 段倉は呆れたように打ち笑い、「聴きなよ、毛太郎次、今時女の死ぬと言う言葉を真に受ける男が居る。何と正直なことではないか。」
 毛太郎次;「死ぬと言う女に死んだためしは無い。」
 段倉:「そうさ、三月や四月くよくよ思っていても、直ぐに生き残って親切にしてくれる人に心が移るに決まっているわ。」

 言う中にも段倉は絶えず眼の隅からスペイン村の方を見張っていたが、つと立ち「おや、あそこにも恋仲らしい若い男と女が来る。どうだろうあの睦(むつ)まじそうなことは。毛太郎次、まあ見なよ。」毛太郎次も立って「おお、あれが友さんとお露だよ。」と言って迎えるように外に出た。

 段倉は半ば独り言のように、「アア、連れ立って早や婚礼の支度でも買い整えに、町まで行くのだ。そうしてここを通って次郎さんに見せびらかすとは余(あんま)りひどい。」

 次郎の心の中はどの様だろう。そのうちに早やお露と友太郎はこの店の前まで来て毛太郎次に呼び止められた。
 毛:「オオ、友さん、お目出度いね。婚礼は何時ですか。」友太郎は真にうれしさの中から首ばかり出しているようである。

 「まあ、喜んでください。今夜父の所で総てのことを決めて、直ぐ明日婚礼するつもりです。」段倉は友太郎よりも次郎の耳に聞こえよと「団君、何しろ大変なお手柄だ、敬服、敬服。」

 次郎は全く聞いていることが出来なかった。今もし、ホンの毛ほどでも彼の心を衝(つ)き動かすものがあれば、彼は何事も忘れて団友太郎に飛び掛るところである。全く飛び掛るばかりとなって、ただ、やっと細糸一本で、堪忍の緒が切れずに居る。

 段倉はその危機を悟った。そうして、そのホンの毛ほどの刺激を巧みに与えた。彼はほとんど人に聞こえないほどに、「イヤ、次郎さんの我慢強いのにも敬服だ。」と呟いた。わずかに一語、千金の力とはこのことだ。次郎は剣を握って猛然として立った。

 立ってその目の前に後光のように輝くのはお露の美しい顔である。お露はここに次郎が居るのを見て、早くもこの危機を見て取り、アワヤという瞬(またた)きの間に、次郎の顔に、露の垂れるような笑みを注いだ。次郎は朝日に逢った霜のように、力も抜けて、又もとの椅子にしおれ込んだ。真にお露の笑顔の外は、何物とても次郎を制止することは出来なかっただろう。

 お露:「ねえ、次郎さん、明日の婚礼にはここに居る皆様を、ご案内して来てくださいよ。」何たるう打ち解けた言葉だろう。全く我が兄に向かうような調子である。

 この言葉を残して、お露は友太郎と共に去った。後には段倉は我が策が外れたのを見たけれど、、少しも悔やみはしない。却(かえ)って次郎のはなはだ組し易いことを知り、「ヘン、このどうでもなる屈強の道具が手に入っているのだもの、、幾らでも奥の手を出すことが出来る。明日の婚礼が上手くいけばお笑い草だ。」口に出しては言わないけれど、心の中で呟いて、静かに次郎の顔を見た。

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