gankutu76
巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
七十六、船乗り新八《シンドバッド》
水夫等が二階から立ち去った後、森江氏は妻と娘に、心配そうにその顔を差し覗かれながら黙って控えていた。
実に巴丸の沈没はこの一家にとって最大の打撃である。ただ一縷(る)《一本の細い糸》だけつながっていた命の綱が切れたのだ。どう考えても破産の外は無いことになったのだ。
妻も娘もその事を知っている。女の身として、泣き出すより外に出来る事と言っても無いけれど、余りに悲しさが深いので、中々涙が出ない。もしもこの時、森江氏の顔に露ほどでも、この不幸に耐えられずに絶望するような様子が現れたならば、妻も娘もたちまち声を出して泣いただろう。ただ森江氏はそのことを知っているから、必死の思いで絶望の色を押さえている。幾らこの家この商店の破産が決まっても、取引銀行の書記の前で妻子と共に泣き沈むことは、男として出来ない事だ。
けれど、森江氏は我慢の限界だった。この上、妻娘を傍に置いては、泣かずに身を支える事は出来ない。早く二人を下にやって何とかあの書記に挨拶しなければならない。やがて氏は妻に向かい、「少しこの紳士と密談があるから」と言った。これだけでその意味を察し、妻は娘に目配せをして、先ず立ち去った。
確かに自分の部屋に泣きに行ったのだろう。娘も続いて立ったが、これは立ち去る前に、かの書記に目を注いだ。この人の一存で、どれほど我が父の苦痛が重くなるかもしれないと気遣うから、なるべく慈悲を下さるよう頼んで置いて行きたいのだ。書記を眺めたその顔には、哀願の色が現れている。
これで緑嬢がこの書記に哀願の意を伝えるのは二度目である。前には階段の途中で会ってこの通りにしたのであった。書記はその意を察して哀れみの念を起こしたのか、肯くように嬢の顔を見返した。嬢は我が哀願が採用されたのを見届ける事が出来たというような様子でここを去った。
後に森江氏は書記に向かった。もう多弁を弄する場合ではない。「貴方のご覧の通りです。この森江良造の最後の頼みを、天が砕いてしまいました。」
全くどうとでもしてくれと身を投げ出したのに等しいのだ。と言って書記も、どうにもすることは出来ないと見え、「実にお気の毒です。」と言った切りだ。
そうして、およそ五分間も二人は顔を見合わせるだけであった。森江氏は大債主とも言うべきこの書記から宣告されるのを待っているのだ。書記は又、森江氏がどうしてくれとか、こうしてくれとか、何か望みらしい言葉が出るのを待っているのだけれど、森江氏の胸には急には、どうしてくれと言う考えも浮ばない。書記は待ちかねたと見え、ついに口を開いた。
「さし当たり、この私が第一の債主だろうと思いますから、もし私の方で日延べの相談にでも応じれば、その間に何とか整理の御工夫は有りませんか。」日延べとは一時しのぎの方法ではあるが、負債に進退が極まっているいる人にとっては、この一時しのぎの方法が実に有り難いのだ。死ぬと決まった病人が今日死ぬのを、明日まで命を延ばして貰うようなものである。
森江氏;「エ、日延べ、その様な事が、書記である貴方の一存で取りはかれますか。」
書記;「ハイ、私は頭取から全権を任されているのです。頭取の権内にあることなら、私の権内にあるのです。」
森江氏;「今まで既に尽くせるだけのことは尽くしましたから、この上に整理の工夫と言っても無いようなものですけれど、それでも、ここで、もし、二ヶ月も日延べが出来れば、森江良造は死にもの狂いで、整理を出来るだけ試みます。」
書記;「なるほど、二ヶ月の間に。」
森江氏;「信用の尽きた身で二ヶ月の猶予をお願いするとは、余りに虫のよい願いですが。」
書記は案外手柔らかに、「いや、私共の銀行と言えども、なるべく貴方に整理の猶予を与え、我が損失を軽くしたいものです。待ってやれば、取り立てる事が出来るものを、追い立てるために直ぐに破産に陥(おちい)らせ、元も子も失う事は、随分今までにも有った経験です。私は充分貴方が手を尽くす事が出来るように、ハイ、三ヶ月の日延べを承諾いたしましょう。」
三ヶ月とは実に望外である。これだけ有れば、或いはその間に、どの様な工夫が出来ないとも限らない。森江氏は有り難くて仕方が無いように書記の手を取って感謝した。書記は何の情もその顔に現さずに、「今日が七月の五日ですから、十月五日まで待つことにして、手形を切り直しましょう。」
十月五日、今より丁度三ヵ月の後である。その日まで森江商会の土壇場は延びたのである。
書記;「十月五日の午前十一時に、私は一分も違いずに、再びここに参りますから。」
森江氏;「その時までには支払いの道が付きましょう。」と言い、腹の中では、「もし付かなければ自殺です。」と呟(つぶや)いた。
これから直ぐに江馬仁吉を呼び、手形の書き換えに取り掛からせ、少しの間に日延べの手続きをしてしまった。およそどの様な商店でも、五十万近くの金を三ヶ月も猶予して貰えば、大いに息をつくことが出来るのは勿論である。巴丸と共に命数の尽(つ)きたとも言うべきこの商会と言えども、もし、生き返る道があれば、、この延期のために生き返らなければならない。
森江氏は繰り返して書記に感謝したが、書記は今感謝されるよりも、三ヶ月後に現金で返して欲しいのだから、それほど喜んだ様子も無く別れを告げた。そうして、階段の所まで行くと、ここには又緑嬢が待っていて、心配そうに書記の顔を見、「本当に三ヶ月も日延べをしてくださったそうで、母が大層喜んでいます。好くお礼を申せと私にーーー」
書記;「イヤ、お嬢様、貴方にお願いしておく事があります。今から二月か、三月の後、必ず貴方のお手元に、船乗り新八(シンドバッド)よりと記した一通の手紙が参りますから、受け取り次第に貴方はその手紙を開き、中に書いてある指図を、その通り行って下さいよ。不思議な指図かも知れませんが、決して悪い事では有りませんから。」
不思議な指図よりも、この願いが実に不思議である。船乗り新八(シンドバッド)という名前も、昔から名高いアラビアンナイトに出て来る名で、その名を使って手紙を寄こすとは何の意味だか少しも分からない。しかし、嬢は承知した。「もし、その指図に従うことが、貴方へのお礼の印になるのなら、私は十分に従います。」
書記;「忘れてはいけませんよ。」
念を押して階段を下り、早や店先の土間に出た。ここには先ほどの水夫長奈良垣という男が、会計小暮から払い渡された給金を、ポケットにも入れずに持って、返そうか如何しようかと考えるように歩き回っている。書記はこれに向かい、「少し話があるから、私と一緒に来てください。」と言い、手を取らないばかりにして立ち去った。
この書記の言う事、なす事、全て普通の人とは変わっていて、何だか理解が出来ないことばかりである。何か常識では考えられないことを計画しているのに違いない。
第七十六終わり
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