巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

八十、一丁は私が用います

 「このピストルをどうなさるのです。」と叱るように問う真太郎の言葉に、父森江氏は返事をしない。ただ口の中で、「エエ、このような邪魔が入らないかと心配だった。」と呟(つぶや)くだけである。
 真太郎は再び聞いた。「お父さん、お父さん、貴方はピストルで何をなさるのです。」

 父はやむを得ないと見たらしい。極めて真面目な顔、極めて真面目な言葉で、「コレ、真太郎、お前は前から家名の大切な事を知り、又人間には命を持って責任に代えなければならない場合があることを知っているだろう。じっくりと事の内容を説明して聞かせるから、父の部屋に来い。しかし女々しい心など起してくれるな。」自殺するからその訳を聞けと言わないばかりで有る。聞いては女々しく留め立てするなと、言わないばかりである。これ程の危機が又とあろうか。

 森江氏は真太郎を従えて、居間に入り、何も言わずに、ただ台帳を開いて示した。真太郎も何も言わずにこれを見た。勿論何も言うに及ばない。計算表の面にこの家の破産が分かっている。今日の正午十二時に、払わなければならない額が五十万円、これに対して一切の有り金が一万五千二百五十七円、これが破産でなくて何であるか。

 真太郎は恨めしそうにこの表を見つめていたが、やがて、「お父さん、尽くすだけの手は残らず尽くしたのですか。」
 父;「残らず尽くした。」
 真太郎;「それで、十二時までに、入って来るべき金はこの外に無いのですか。」
 父;「無いのだ。」
 真太郎;「金策の道は、少しも有りませんか。」
 父;「少しも無い。」

 もう、この上に問うべき所は無い。これだけの問い、これだけの答えで、どうしようもない事が身に浸みるほど良く分かった。真太郎は重い息を洩らして、「成る程、支払いを清算に来る時が破産の時です。」
 父;「その通りだ。破産の不面目は血をもって洗うほかは無い。生きていては言い訳が出来ないのだ。」
 真太郎は納得が行ったような語調で、「お父さん、有難う御座います。このピストルの中の一丁は私が用います。」

 到底父の死を止める方法が無いのだから、自分も一緒に死のうと言うのだ。父はピストルを取ろうとする真太郎の手を押し退けて、 「お前には母と妹があるではないか。母と妹を誰が養って行く。」
 真太郎は当惑そうに身を震わせて、「では私に、生き残って母と妹を養えと仰(おっしゃ)るのですか。」
 父;「そうだ。そう命じるのだ。お前は世間の少年と違い、ものに動じない性格をしている。どの様な場合にも静かに考える事ができる。父はこれ以上何も言わないから、一人じっくり考えて決定せよ。父と一緒に死ぬのが義務か、生き残って家族に対し、また世間の人に対し、残務を処理するのが義務か。」

 真太郎はやや長い時間黙って考えた。ついに顔を上げて、「お父さん、私は生き残ります。」
 真に感心な決心である。死ぬのはこの場合には誰でも出来る。生き残ろうと言うのは大勇士が行う事だ。
 父;「オオ、それでこそ俺の息子だ。俺が死ねば世間の人の考えも一変し、今まで厳格に催促した人達も、待ってやろうと言う気になるから、お前は十分に力を尽くして、この森江の家を再興せよ。」

 新;「再興します。再興します。」
 言い切ったが、またしばらくして、「ですが、お父さん、貴方がお死になされなくても、再興が出来るのではありませんか。ここは一度、やむを得ず破産しても、貴方と私とで力を合わせれば」
 森江氏;「イイヤ、それは今も言った通りである。俺が生きていては、世間の借金取りは少しの慈悲も加えないから、如何する事も出来ない。生きていては再興の望みは無いが、死すればその見込みが出るのだ、死ねば人が許してくれる。」

 真太郎;「どうも致しかた有りません。」
 相談は全く決まった。父は死し、息子は生き長らえるのだ。父は非常に落ち着いた声で、、「この家の再興が出来た時には、第一にこの富村銀行への債務を返してくれ。多くの債主の中で、なぜか知らないが、俺に対して慈悲の心を示してくれたのはこの銀行である。」

 真;「分かりました。」
 父;「この銀行への今日の支払いは正午十二時の約束だけれど、何しろ五十万に近いことなので、多分、それより一時間前、即ち十一時にはその書記が念を押しに来て、そうして十二時まで待っていることになるだろう。俺は最後の場合までは、生きて居なければならないのだから、十一時の時計の音と一緒にこの世を去るつもりだ。これ以外にもう言う事は無い。サア、下に行け。」

 話は全て終わったからと言って、どうして子として、ゆったりと落ち着いて立ち去る事が出来ようか。
 「オオ、お父さん、お父さん」と叫び、父の体に抱きついた。父も我知らず抱きしめて、「オオ、真太郎、これが別れだ。」
 真太郎;「何とか工夫は無いでしょうか。」

 父は静かに真太郎を払いのけ、「何度言っても、工夫が無いからこそここに至ったのだ。お前は軍人であるのだから、人には死すべき時がある事を知っているだろう。サア、下へ行け。」
 実に軍人ならばこそ、父の言葉が分かるのだ。「致しかた有りません。お父さん、さよなら。」
 父;「真太郎、さらば。」告別の言葉と共に真太郎は下に下がった。

第八十終わり
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