巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

八十二、天の意


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 十五年も前に、人の不幸を憐れんでその家の暖炉の棚に置いて来た皮の財布が、今までそこに有るはずは勿論無い。その財布は、その中の金と共に、イヤ金と言えば四,五十円でも有ったろうか。その時にそれぞれ使い果たした事が確かに記憶にも残っている。しかも、その財布が今まで同じ棚の上にあった。

 今度は森江氏の身に取り、五十万円の現金にも同じく、一命にも同じく、また家名全体にも同じ受け取りと、外に娘への立派な結婚祝いまで添えて、ああ、これが夢にさえある事だろうか。
 陰徳に陽報有りと言うけれど、私が財布を置いたのは、陰徳と言う程でもない。ただ尽くすべき当然の務めをを尽くしたのだ。しかし、その報いが、これほどまでに大きく、こうまでも大切な時に来ようとは、有り難がるとも、冥加に余るとも、ほとんど言い様が無い。よしんば天の助けと言っても、決してここまで厚い筈(はず)は無い。

 筈(はず)は無くても事実は事実。無いとする事はもちろん出来ない。「それにしても、娘よ、そなたはどうしてアリー街十五番地の5階に行ったのか。」
 緑嬢は「先ず、これをご覧ください。」と言い、あの「船乗り新八(シンドバッド)」と署名した手紙を出し、かつは先にあの富村銀行の書記がもしこの名前の手紙が来たら、少しも疑わずにその指図に従えと言った事から、今日江馬仁吉に相談して、アリー街の入り口まで送られて行ったことまで、言葉短く説き明かした。

 「アア、それでは富村銀行のあの書記が決してただの書記ではない。初めから俺を助けてくれる積りでしていたのだ。それにしても彼は何者だろう。神の使いより有り難い。」真に森江氏はしばらくの間伏し拝んだ。

 更にこの後の事だが、森江氏から冨村銀行に問い合わせたところ、「当行にはにはその様な書記は居らず、又この頃、フランスの方に人を出した事も無く、森江商会の手形を買い入れた事もない。きっと誰かが当商会の名を濫用したのだろう。」と言う返事が来た。

 拝み終わって森江氏が顔を上げるのを待ち、娘は又言った。
 「それでも、私が帰るときに、どう言うわけか、仁吉はアリー街の入り口に待っていませんでした。」と少し不満らしく言った。このところに「イヤ、嬢様を待っていられないことが事が起きました。」と言いながら、転がり込むように入って来たのは、江馬仁吉自身である。彼は息もせわしく、「私が待っているところに、何時も港に居る子供が大変な事を知らせて来ましたから、私は港の方に飛んで行きました。」

 森江氏;「大変な事とは」
 仁吉;「旦那様、巴丸が入港しました。」
 森江氏は一言に、「巴丸は沈んだではないか。その様な事を冗談ででも言うべき場合ではない。」
 ほとんど叱り飛ばすように言った。

 仁吉;「イイエ、私が見て来ましたから確かです。どうか、直ぐに、ご自身で海岸に行ってご覧ください。」と言う声の終わらないうちに、息子真太郎も上がって来た。「お父さん、巴丸が沈没したように仰ったのは何かの間違いでした。海岸の船見番所が、巴丸入港の信号を掲げました。」
 会計小暮もやって来た。彼は、「巴丸、巴丸」と連呼するほか、何事も言うことが出来ないような有様である。

 森江氏は自分の心が一種の幻想病に罹(かか)ったかとまでに疑った。けれど、財布の一件に比べて見れば、沈んだ船が入港しないとも限らない。「兎に角、自分で行って見るより外はない。三人まで同じ事を言うからには、間違いにしても、何か理由があるだろう。」こう言って立ち上がり、一同と共に階段を降りかけると、森江氏の妻も「実に不思議な事もあるものでは有りませんか。」と言いながら、走って来て、一行に加わった。

 一同で波止場まで行って見ると、ここには大勢の人が集まって、口々に巴丸のことを言っている。そうして、この一行を見ると道を開いた。
 いかにも、船見番所には巴丸入港の信号が出ている。それだけではない。今にも桟橋に着こうととしているのは、巴丸の通りの船で、その舳先には巴丸の通りに、「巴丸、マルセイユ港森江商会持船」と塗り込んである。そうして、甲板には巴丸の水夫の、あの奈良垣が指揮していて、操縦室の傍で森江氏に目礼しているのは郷間船長である。

 それだけでなく、税関吏が調べた積荷も、全て高価なインドの物産で、出帆の時に森江氏が指図した通り、藍と薬種が一番多いのだ。金に見積もれば丁度相場に値が出ている時なので、莫大な儲(もうけ)けである。「ああ、巴丸、巴丸」群衆の中から「森江氏万歳」の声が起こった。そうして、森江氏の傍に来て握手を求めるものは引きも切れない。

    *      *      *       *        *       *  

 この混雑にまぎれて、物影から現れた一紳士がある。森江一家の人々の喜びに狂するような様子を非常に満足そうに一瞥して、誰の注意も引かずに、海岸の石段を下り、水際に立って「ジャコボ、ジャコボ」と二声呼んだ。ジャコボとは既に記した名前である。呼ばれると一艘の小舟を漕いで、ジャコボは岸に寄った。あの紳士は軽くこれに乗り、僅かに先の方に停泊している一艘の遊船に漕ぎ付けて乗り移った。これこの紳士、果たして何者なのかは、特に言うのにも及ばないところである。

 この紳士は更に遊船の窓から海岸の有様を覗いていたが、やがて概然として窓を離れ、「ああ善人に善の報い。思う通りに何事も無く上手く言ったのは全く善を助ける天の意に従ったからだ。これからは私に善といった仕事は無い。天の意にしたがっていよいよ悪を懲らしめなければならない。
 ああ悪を罰するのは善を賞するのより難しい。今日ただ今より、一切の人情をこの身から絞り捨て、ただ復讐の凝り固まりならなければならない。この決心を貫かなければ、男ではない。今のことよりも一層手際よくし終わって、どれほど天罰が恐ろしいかということを世の人々に知らせてやらなければならない。」

 呟き終わって、更に熱心に神に祈願を込めていたが、これから二時間の後には早やどこへ向けて出発したのか、この舟は付近には見えなかった。

第八十二終わり
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